コラム
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 サンクトペテルブルクはロシアの古都。宮殿や大聖堂に王朝の栄華が香る。日付が変わる頃、ふと窓外に目をやると、美しい街並みが淡く輝いていた。北緯60度。初めての白夜に戸惑う。21年前の夏の記憶である▼昼でも夜でもない。かわたれでも黄昏(たそがれ)でもない。明暗が判然とせず、はかなく妖しげ。白々とした空に過酷な宿命を重ねて言葉を紡ぎ続けたのだろうか。久しぶりに三浦哲郎さんの『白夜を旅する人々』を手に取った▼日本芸術院会員に名を連ねた八戸市出身の文豪。半世紀以上にわたる作家人生は姉兄の自死や失踪を原体験とした。定めとして世に出した長篇は、生と死の根源を見つめる三浦文学の記念碑である▼編集者で作家の竹岡準之助さんは大学で知己を得た。「影を描くんだ。そうすればその物が浮かび上がってくる」。三浦さんの助言に大作家の萌芽(ほうが)を見た。畏友に捧げた著書で幾度となく「文学の鬼」と称える▼妥協を排して無駄をそぎ落とす。緩みのない清らかな筆致は、身を切るような推敲(すいこう)から生まれた。加えて背景に故郷の情景があるとすれば、「最後の文士」の功績とともに豊かな風土も受け継いでいきたい▼『白夜~』の続篇『暁の鐘』は未完のまま。長い旅の先にはどんな夜明けが待っていたのだろう。志半ばで三浦さんが逝ってから早くも10年。竹岡さんの著書によれば命日の8月29日は『白夜の忌』である。