天鐘(8月20日)

終戦の日に行われた全国戦没者追悼式の参列者は昨年の1割弱。広島と長崎の平和記念式典も同じだった。いずれも感染症の拡大防止のため、今年は式典の規縮縮小を余儀なくされた▼75年の節目を思えば、いささか寂しい。ただでさえ戦争体験者が減って、記憶の.....
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 終戦の日に行われた全国戦没者追悼式の参列者は昨年の1割弱。広島と長崎の平和記念式典も同じだった。いずれも感染症の拡大防止のため、今年は式典の規縮縮小を余儀なくされた▼75年の節目を思えば、いささか寂しい。ただでさえ戦争体験者が減って、記憶の風化が進んでいる。反戦、平和への思いや決意をどんな言葉で次代へ伝えるか。それが今こそ問われているはずだ▼「8月ジャーナリズム」という言葉がある。毎年この月にマスコミによる戦争関連の報道が集中することだ。年に一度、あの悲惨な時代を考えてもらうことには意義がある。一方で、そこには「マンネリ」との指摘もつきまとう▼以前、ある読者から「テレビも新聞も似たような記事ばかり」との苦言を頂戴した。「夏の恒例行事と思ってはいないか」と。確かに耳の痛いご意見である。背筋が伸びる思いがした▼広島と長崎の式典での安倍首相のあいさつが「使い回し」と批判された。よもや毎年恒例の行事と高をくくっての、やっつけ仕事だったわけではあるまい。だが当事者たちにはどう響いたか。胸中に冷たい風が吹いたに違いない▼このところ首相の言葉には重みがない。今回も参列者の気持ちにどれほど心を寄せたのか。政治がマンネリでは国民は浮かばれない。風化は無関心から始まっていく。そのことをわが胸にも手を当てながら節目の夏にかみしめる。