「新たな街」復興の光 家、町の宝戻らない現実/ルポ・福島第1原発周辺は今(後編) 

産業復興の取り組みを説明する伊澤史朗町長。除染で出た土壌などの中間貯蔵施設(写真奥の白いテントなど)が隣接する=9日、双葉町 
産業復興の取り組みを説明する伊澤史朗町長。除染で出た土壌などの中間貯蔵施設(写真奥の白いテントなど)が隣接する=9日、双葉町 
校内は完全に時間が止まっていた。 別の教室には食塩やラップ、変色したご飯がテーブルに置かれたままだった。夕暮れ時の空腹をおにぎりで満たしたのだろうか。体育館をのぞくと、約2週間後に控えた卒業式の練習に合わせ、椅子や演台が並ぶ。壁の色あせた紅.....
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 校内は完全に時間が止まっていた。[br][br] 別の教室には食塩やラップ、変色したご飯がテーブルに置かれたままだった。夕暮れ時の空腹をおにぎりで満たしたのだろうか。体育館をのぞくと、約2週間後に控えた卒業式の練習に合わせ、椅子や演台が並ぶ。壁の色あせた紅白幕が無情な月日の流れを物語っていた。 [br][br] 学校を「遺構」として残すかどうかは、膨大な費用がかかるため簡単に答えを出せないという。もっともこの先、どれだけ住民が戻ってくるかも見通せない。原発事故前に約7千人を数えた双葉町の人口だが、行政側の調査に回答した住民のうち帰還意向を示すのは約1割にとどまる。「帰還の状況と学校をセットで考えていきたい」と語る伊澤史朗町長の口が重く感じた。[br][br] 記者を乗せたバスが東に走りだし、太平洋が近づくと視界は一気に開けた。住民帰還に向けた就労環境整備の一環で、中野地区に広がる約50ヘクタールのさら地に真新しい建物が間隔を空けて立ち並ぶ。現在までに立地が決まったのは17件22社。会議室やフードコートを設ける4階建ての町産業交流センター屋上から見下ろすと、均整の取れた景色が「新たな街」を生み出していることを実感できる。言うなれば復興の「光」の部分だろう。[br][br] 昨年9月、約170点の展示資料を備えて開館した福島県の施設「東日本大震災・原子力災害伝承館」は同地区の一角にある。ちょうど記者が訪れた時には、双葉町の北に位置する浪江町在住の志賀徳子さん(73)が「語り部」として来館者に被災体験を伝えていた。[br][br] ここでの活動を「生きがい」と話す志賀さんも、震災当時は双葉に暮らす住民の一人だった。県内の別の町に一時避難し、子どもを頼って神戸市へ。再び県内に戻って2度目の転居で浪江に落ち着いたという。穏やかな語り口とは対照的にエピソードの過酷さが胸を締め付ける。[br][br] 「やっぱり古里って大事。つらいことがあっても心のより所だから。今は与えられた現実に無我夢中で生きているけど、今もこういう生活を送っていると(電力消費地である)東京の人にも分かってほしい」[br][br] 前後して伝承館から南に10キロほど離れた富岡町のJR夜ノ森駅周辺も歩いた。かつて桜の名所として知られた地も、道路沿いを張り巡らすバリケードが行く手を阻む。家も、町の宝も、10年たっても全てがいまだ戻らない現実。[br][br] 果たして復興とは何なのか。同行してくれた、植樹などの地域おこし活動に取り組むNPO法人ハッピーロードネット(広野町)の西本由美子理事長(67)は強調する。「これから10年先のことを考えないといけない」 産業復興の取り組みを説明する伊澤史朗町長。除染で出た土壌などの中間貯蔵施設(写真奥の白いテントなど)が隣接する=9日、双葉町