天鐘(1月4日)

「三日月の丸く(満月)なるまで南部領」と言われるほど戦国時代の南部領は広かった。秀吉の奥州再仕置後、今の岩手県南地方で南部藩と伊達藩が相接して対峙(たいじ)することになるが、その領界はどこだったのか?▼北上市相去町。土塚が東西に列をなし、奥.....
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 「三日月の丸く(満月)なるまで南部領」と言われるほど戦国時代の南部領は広かった。秀吉の奥州再仕置後、今の岩手県南地方で南部藩と伊達藩が相接して対峙(たいじ)することになるが、その領界はどこだったのか?▼北上市相去町。土塚が東西に列をなし、奥羽山脈から太平洋の釜石市まで蜿蜒(えんえん)と百数十キロに及んだとか。南部領の和賀郡と仙台領だった胆沢郡を分断する領界である▼1591(天正19)年の奥州再仕置後、南部は和賀と下閉伊、伊達は胆沢と江刺、気仙の各郡を領有するが、領界で争いが頻発。江戸初期に東西の領界に68の大塚、中期にはその間に多数の小塚を築いて警固した▼同市の田園地帯に“万里の長城”の領境塚が国史跡として残る。河川ではなく平地を境としたのは、蝦夷(えみし)を征討しながら新郡を置いた古代開拓の名残らしい。今も残る点線に両藩の激烈な駆け引きが偲(しの)ばれる▼昔話…。伊達公が南部公に「互いに同刻に牛で城を出て、遭遇した所を境界に」と書状を送った。相去で出会ったら伊達公は何と馬。南部公が約束違反を詰(なじ)ると、伊達公は「『午(うま)』と書いたはず」と一蹴したとか▼線引きで伊達は南部領に食い込むズルをするが南部は力に屈した。悔しさが滲む伝承で、伊達には「南部の殿様牛に乗る」の囃(はや)しが残る。丑(うし)年である。温厚で忍耐強い牛もいい。質実剛健がコロナ社会を生き抜く秘訣でもあるような…。