三浦哲郎を旅する。(1)三日町の生家と「三萬」(八戸市)

「丸三」があった場所に建つ「三浦哲郎生誕の碑」=八戸市三日町
「丸三」があった場所に建つ「三浦哲郎生誕の碑」=八戸市三日町
八戸市庁前から市中心街へ向かい、三日町にあるさくら野百貨店の角を曲がって間もなく、左手に小さな石碑が現れる。1995年に建てられた「三浦哲郎生誕の碑」だ。 今から90年前の1931(昭和6)年3月16日、後に「忍ぶ川」で第44回芥川賞を受賞.....
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 八戸市庁前から市中心街へ向かい、三日町にあるさくら野百貨店の角を曲がって間もなく、左手に小さな石碑が現れる。1995年に建てられた「三浦哲郎生誕の碑」だ。[br][br] 今から90年前の1931(昭和6)年3月16日、後に「忍ぶ川」で第44回芥川賞を受賞し、2度の川端康成文学賞に輝くなど、文壇で確固たる地位を築いた作家三浦哲郎さん(1931~2010年)が生まれた。生家は、この地に戦後直後まで存在した「丸三」という呉服屋である。[br][br] 父は、金田一村(現二戸市)出身の壮介。三浦さんの「私の履歴書」によると、壮介は長身でがっしりした体格の持ち主で、相撲取りになろうとしたこともあったという。母は、近くにあった呉服店「三萬」の長女いとで、壮介を婿に迎えて分家を立てたのだった。[br][br] 現在の三日町はさくら野や「はっち」が並ぶ。道路を挟んでマチニワや八戸ブックセンターもあり、三浦さんが生まれた頃も今も、にぎわいのある場所だ。ただ、生家の雰囲気を伝える物は残っていない。[br][br] 三浦さんの自叙伝「揺籃(ようらん)のころ」によると、父は朝から角帯を締めて店の帳場に座り、1、2人の住み込みのでっちが、店番や使い走りをしていたという。[br][br] 本紙くらし面の「こころのうた」に、幼少時、丸三によく買い物に行ったという70代女性の投稿があった(1998年)。「間口があまり広くなく、奥行きが深いお店のように記憶しています。角帯姿の番頭さんがいて、店先には四角の火鉢が置いてありましたね」[br][br] 大戦末期、母や姉は金田一に疎開し、中学生の三浦さんは父と2人、生家で暮らしていた。ある日の空襲で、哲郎少年が「ごく軽い気持ち」で避難した隣の銀行から自宅に戻ると、いつも閉じこもっていた倉庫2階の部屋がグラマン艦載機の機関砲を被弾していた(『自作への旅』)。死と隣り合わせの体験は、井伏鱒二に目をかけられるきっかけとなった作品「遺書について」のベースとなる。[br][br] 本家の三萬は、現在のはっち西側駐車場辺りにあった。明治時代に十三日町の泉太呉服店で奉公した三浦萬吉が独立し、2代で「八戸の三越」と呼ばれる呉服店に成長。経済史に詳しい八戸地域社会研究会の高橋俊行会長は「2階建ての店舗にショーウインドー、マネキン、女子店員の接客など革新的な経営を行い、八戸初のデパートとして話題になった」と指摘する。[br][br] 大戦末期、軍の木製偽装飛行機工場となっていた三萬は敗戦後、進駐軍向けのダンスホール「オリエンタル」に生まれ変わった。1945年12月28日付の本紙に「暗い街にここは不夜城」で始まるルポが掲載されている。「勇を鼓してドアを開けば百花繚乱(りょうらん)踊り狂ふ人の群」で、大勢で大笑いする米兵もいれば、故郷を思ってか、涙ぐみ歌を口ずさむ米兵もいたと記す。[br][br] 施設裏の本家に一時期寄宿した三浦さんも、ホールで繰り広げられた悲喜劇を見聞きしていたのだろう。後にここをモデルに、ダンサー、米兵らが織り成す長編『おりえんたる・ぱらだいす』を書いた。[br][br] 多感な時期に敗戦前後で一変した世の中を目の当たりにしたことは、“きょうだいの喪失”と共に、作家三浦哲郎に大きな影響を与えることになる。[br][br]・・・・・・・・・・・[br][br] 今年は、作家三浦哲郎さんが生まれて90年、芥川賞受賞から60年の節目に当たる。三浦さんは多くの作品に郷土を描いたことで知られる。その端正な文章に刻まれた場所や物を訪ねる。「丸三」があった場所に建つ「三浦哲郎生誕の碑」=八戸市三日町