【震災10年】「揺れたらすぐ高台へ」 遺族ら後世への教訓

 妻、長男夫婦、孫の同居家族4人を津波で亡くした鈴木堅一さん=10日、岩手県釜石市
 妻、長男夫婦、孫の同居家族4人を津波で亡くした鈴木堅一さん=10日、岩手県釜石市
東日本大震災の多くの被災地では、地震から津波が到達するまで30分以上の猶予があった。多数の人命が失われた結果に「避難できていれば助かったはず」と悔やむ声が今も絶えない。遺族や住民が、ほかの地域や後世に伝えたいメッセージは「揺れたら、すぐ高台.....
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 東日本大震災の多くの被災地では、地震から津波が到達するまで30分以上の猶予があった。多数の人命が失われた結果に「避難できていれば助かったはず」と悔やむ声が今も絶えない。遺族や住民が、ほかの地域や後世に伝えたいメッセージは「揺れたら、すぐ高台に逃げて」だ。[br][br] 「屋上に向かうか、それとも高台か…」。2011年3月11日、宮城県南三陸町の戸倉小学校。激しい揺れの中、校長だった麻生川敦さん(63)は避難先を迷った。[br][br] 埼玉県出身の麻生川さんは09年、沿岸の戸倉小に赴任。マニュアルでは地震の際、10分ほどかけて高台の山に避難することになっていた。麻生川さんは、3階建て校舎の屋上の方が移動しやすいと考え、教職員に提案。しかし、地元出身の教諭が「屋上からは逃げられない」と猛反対した。[br][br] 話し合いで、屋上と高台ともに避難場所とし、最終的には校長が判断することに。その約2週間後、震災が起きた。[br][br] 大きな揺れに「尋常じゃない」と感じた。教頭が「校長先生、高台ですね」と言ったことも決断を促した。校庭での点呼は省略。「クラスごとに高台に走れ」と指示した。避難を終えた後、津波が校舎をのみ込んだ。[br][br] 岩手県釜石市の民生委員山崎幹雄さん(72)は経営する商店で揺れを感じ、「津波が来る」と頭に浮かんだ。「早く逃げろ」。近所を回って避難を促し、住民が続々と高台に駆け上がった。[br][br] 揺れから30分ほどたったころ、津波が土煙を立てて近づいてきた。慌てて走り、長靴のくるぶし辺りまで水が押し寄せた。間一髪だった。「危なかったけど、地域の人を守らないといけなかった」と山崎さん。[br][br] 大震災では民生委員56人が犠牲になった。ほかにも消防団員や警察官など、避難誘導に当たった多くの人が犠牲に。[br][br] 全国民生委員児童委員連合会は震災後、災害時の指針を「自分自身と家族の安全を最優先に考える」などと改めた。担当者は「最近の水害や地震では、自分の身の安全を確保して活動するようになった。犠牲は二度と出してはならない」と語る。[br][br] 「何十年も生きていく(小学)5年生で亡くなった孫がかわいそうでなりません」。11日、岩手県釜石市の追悼式で、遺族代表の鈴木堅一さん(77)は、自宅にいた妻、長男夫婦、孫の同居家族4人を津波で亡くしたことを伝えた。[br][br] 1960年のチリ地震や68年十勝沖地震の津波被害を見たことがあった。だが「これほどの大津波になるとは。家族を高台に逃がせばよかった。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。心の復興はありえない」と悔やむ。[br][br] 今後、津波で犠牲者が出ないことを願ってやまない。「自分の身は自分で守るしかない。普段からどこに逃げるかを考え、訓練を重ねる。空振りでもいい。それぞれが『とにかく逃げろ』だ」 妻、長男夫婦、孫の同居家族4人を津波で亡くした鈴木堅一さん=10日、岩手県釜石市