【冷戦下の沖縄米軍基地】変わらぬ要衝、常に有事 アジア最大「核兵器庫」

 沖縄返還後も継続使用された米軍嘉手納基地で、金網越しに爆撃機を見つめる住民ら=1972年10月
 沖縄返還後も継続使用された米軍嘉手納基地で、金網越しに爆撃機を見つめる住民ら=1972年10月
冷戦下の沖縄に配備された米軍の核兵器管理部隊。その活動記録からは「アジア最大の核兵器庫」と称された沖縄で、実戦さながらの核爆弾の搬出入が恒常的に行われていた様子が鮮明だ。現在と変わらぬ米軍事戦略の要衝に位置付けられた沖縄では、住民が日常生活.....
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 冷戦下の沖縄に配備された米軍の核兵器管理部隊。その活動記録からは「アジア最大の核兵器庫」と称された沖縄で、実戦さながらの核爆弾の搬出入が恒常的に行われていた様子が鮮明だ。現在と変わらぬ米軍事戦略の要衝に位置付けられた沖縄では、住民が日常生活を送る傍らで“有事”が展開してきた。[br][br] ▽自由に使える基地[br] 「日本には核兵器を国内に持ち込むことにかなりの反対があり、そうした兵器の基地として沖縄に米国の地位を維持する必要性を完全に理解している」[br][br] 1961年の日米首脳会談で沖縄の軍事的重要性を強調する当時のケネディ米大統領に、池田勇人首相はそう応じている。本土から分離され、米軍統治下に置かれた沖縄は米軍が「自由に使える基地」とされた。[br][br] 沖縄は第2次大戦直後から、核戦争の司令塔となる米戦略空軍の出撃基地となることが想定されていた。「大量報復戦略」の下、ソ連など共産勢力の侵攻に核で応戦する政策を取ったアイゼンハワー政権は同盟国に核を実戦配備したが、最もあからさまな核基地化が進んだのも沖縄だった。[br][br] 50年代半ば以降、約20種類の核兵器が持ち込まれ、核爆弾投下訓練などを行うための土地の接収が強行された。嘉手納基地に隣接する一帯には数万トン分の弾薬貯蔵施設を保持する核管理部隊が配備された。[br][br] ▽戦争の要[br] 沖縄の核は、50年代に2度にわたり起きた台湾海峡危機などを受けて増強され、米公文書によれば、58年の2度目の危機時には嘉手納基地から中国を核攻撃する計画が検討されていた。[br][br] 日米史家の新原昭治にいはらしょうじ氏の研究によれば、ベトナム戦争時には沖縄から原子砲がベトナムに持ち込まれたほか、ベトナムに派兵された米軍が担当者を沖縄に派遣して核使用準備の訓練を行っていた。67年には沖縄の海兵隊基地で核地雷を使用した訓練中に事故が起き、米兵が被ばくしていたことが明らかになっている。[br][br] ▽遠い軍縮[br] 69年の日米首脳会談で沖縄の「核抜き本土並み」返還が決定したことを受けて、これらの核兵器は撤去された。だが、当時の佐藤栄作首相の密使を務めた若泉敬わかいずみけい氏の証言により、有事の際、沖縄への核再持ち込みを認める密約が日米で交わされていたことが判明した。[br][br] 現在も米ロの中距離核戦力(INF)廃棄条約が失効したのを受け、米国による地上発射型中距離ミサイルの配備先に沖縄が取り沙汰される。[br][br] 沖縄の「負担軽減」を掲げる日本政府は普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古沿岸部への移設にまい進する一方、軍縮に向けた具体的な対応は見えてこない。(共同) 沖縄返還後も継続使用された米軍嘉手納基地で、金網越しに爆撃機を見つめる住民ら=1972年10月