【評伝・橋田寿賀子さん死去】ホームドラマの原点に戦争 日本の家族描き続け

 インタビューに答える橋田寿賀子さん=2019年11月、静岡県熱海市
 インタビューに答える橋田寿賀子さん=2019年11月、静岡県熱海市
NHK連続テレビ小説「おしん」、長寿ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」―。テレビドラマの世界に一時代を築き、4日死去した脚本家橋田寿賀子さんは生涯を通じ、本質を見抜く鋭い観察眼と、類いまれな筆力で日本の家族を描き続けた。 2012年3月、「橋田ド.....
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 NHK連続テレビ小説「おしん」、長寿ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」―。テレビドラマの世界に一時代を築き、4日死去した脚本家橋田寿賀子さんは生涯を通じ、本質を見抜く鋭い観察眼と、類いまれな筆力で日本の家族を描き続けた。[br][br] 2012年3月、「橋田ドラマとは何か」と尋ねた。橋田さんは真剣そのもののまなざしで、こう答えた。「私のテーマはずっと戦争と平和だった」[br][br] ホームドラマの印象が強いだけに意外だったが、そういえば「おしん」にも、脱走兵が与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」を幼いおしんに教える場面があった。[br][br] その原点は、青春時代の戦争体験にある。[br][br] 日本女子大に進学したが空襲が激しくなり、1945年4月に母の実家がある大阪へ。旧日本海軍の経理部に勤務し、終戦は20歳で迎えた。街は一面焼け野原になり、配給はウドばかりだった。[br][br] 貧しさに耐え、苦難に耐える「おしん」が放送されたのは83年。高度経済成長を経て、日本が経済大国として躍進していた時期だ。「戦争を体験した私には、高度成長が怖かった。身の丈にあった幸せがあることを伝えたかった」[br][br] 81年のNHK大河ドラマ「おんな太閤記」のときも思いを貫いた。重視したのは、敵味方に分かれて戦う合戦シーンではなく、秀吉とその家族の人間ドラマだった。[br][br] 遅咲きで、不遇の時代が長かった。松竹脚本部に入ったが芽が出ず、アルバイトで少女雑誌の小説を書いて生計を立てた。TBSのプロデューサーだった石井ふく子さんとの出会いが転機に。64年の「袋を渡せば」以来、2人で数々のヒット作を世に送り出した。[br][br] 66年にはTBSのプロデューサーだった故岩崎嘉一さんと結婚した。脚本家としての仕事は多忙を極めたが、常に家庭を優先。2012年には2人の絆を描いたドラマ「妻が夫をおくるとき」が放送された。[br][br] 「渡る世間―」第10シリーズ最終回を書き上げた11年夏、お祝いに生まれて初めてコップ1杯のビールを飲んだ。「酔いませんでしたけど、あの解放感でお酒を飲めたのは素晴らしかった」。その表情には、現代の「家族の肖像」を書き上げた満足感が漂っていた。 インタビューに答える橋田寿賀子さん=2019年11月、静岡県熱海市