【幻の天皇訪韓】実現近づけた「痛惜の念」 歴史問題再燃で霧散

 天皇陛下に対する「訪韓招請問題」と記された1990年の韓国外交文書(共同)
 天皇陛下に対する「訪韓招請問題」と記された1990年の韓国外交文書(共同)
現在の上皇さまが皇太子だった1980年代から、天皇に即位された後の90年にかけて、日本政府は韓国との歴史問題での区切りを付けようと、数度にわたって韓国訪問の道を探ってきた。加害者と被害者の立場を明確にした90年の天皇陛下(当時、以下同)の「.....
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 現在の上皇さまが皇太子だった1980年代から、天皇に即位された後の90年にかけて、日本政府は韓国との歴史問題での区切りを付けようと、数度にわたって韓国訪問の道を探ってきた。加害者と被害者の立場を明確にした90年の天皇陛下(当時、以下同)の「痛惜の念」とのお言葉で、訪韓実現に向けた障壁は取り払われたかにみえた。だが歴史問題は再燃し、今は訪韓の議論もない。[br][br] ▽日本が打診[br][br] 韓国側が「皇太子訪韓」を公式に提案すれば日本政府は歓迎する。時期は86年10月に―。[br][br] これまでに公開された韓国の外交文書によると、訪韓計画は日本外務省が85年11月、韓国側に日程を含めた構想として打診した。当時の中曽根康弘内閣が「戦後政治の総決算」を掲げていた影響も大きかったとされる。 この訪韓計画は86年3月に公表されたが、皇太子妃(現在の上皇后さま)の健康上の問題でいったん取りやめになる。[br][br] 続く竹下登内閣も昭和天皇死去後の89年4月、天皇陛下の即位後の最初の海外訪問地として「訪韓を実現する方向で調整したい」と韓国に伝達。このときもリクルート事件で竹下首相が退陣し、構想は棚上げとなった。[br][br] ▽リンク[br][br] 一方、88年発足の韓国の盧泰愚政権は政治基盤が弱く、対日外交での成果獲得を急いでいた。[br][br] 韓国外交文書によると、訪韓招請の打診を受けた韓国政府は、日本が天皇の訪韓を「今後重要な対韓外交目標として推進しようという意図」を持っていると判断。盧大統領が訪日した際に陛下の訪韓招請を行うこととリンクさせ、植民地支配などの日韓の歴史に関する陛下の「明快な言明」を求める外交を展開した。[br][br] 90年春、日韓間では在日韓国人3世の指紋押なつ義務などを巡る問題があったが、外相会談で義務免除を決め、盧大統領訪日へ環境を整えた。[br][br] ▽決着確信[br][br] 90年5月、宮中晩さん会で陛下が「痛惜の念」との表現を使い植民地支配に対するおわびに踏み込むと、盧大統領も離日前の記者会見で「(私も国民も)過去の不幸な歴史には一応決着がついたと思うだろうと確信する」と明言。天皇訪韓の機運は高まった。[br][br] しかし韓国では、旧日本軍の従軍慰安婦にされたと女性が名乗り出て証言を始め、慰安婦問題は日韓間の懸案として今も解決できないままに。92年の天皇訪中では日本で「皇室の政治利用だ」との批判が起きた。韓国では天皇の訪韓を望む声が時折政治家の口から出るが、日本政府は相手にする気配もない。(ソウル共同) 天皇陛下に対する「訪韓招請問題」と記された1990年の韓国外交文書(共同)