【震災10年】原発への感謝と憎しみ交錯/双葉町の男性

 中間貯蔵施設に囲まれた自宅跡を訪れた池田耕一さん。奥には廃棄物を入れた袋が積み上がる=10日午前、福島県双葉町
 中間貯蔵施設に囲まれた自宅跡を訪れた池田耕一さん。奥には廃棄物を入れた袋が積み上がる=10日午前、福島県双葉町
原発を目にするたび、感謝と憎しみが胸中で交錯する。東京電力福島第1原発の近くで人生の大半を過ごしてきた農家の池田耕一さん(89)は「地震と津波だけなら、今もここに住んでいた」。6代にわたり受け継いできた福島県双葉町の自宅や農地は今は跡形もな.....
有料会員に登録すれば記事全文をお読みになれます。デーリー東北のご購読者は無料で会員登録できます。
ログインの方はこちら
新規会員登録の方はこちら
お気に入り登録
週間記事ランキング
 原発を目にするたび、感謝と憎しみが胸中で交錯する。東京電力福島第1原発の近くで人生の大半を過ごしてきた農家の池田耕一さん(89)は「地震と津波だけなら、今もここに住んでいた」。6代にわたり受け継いできた福島県双葉町の自宅や農地は今は跡形もなく消え、黒いフレコンバッグに入った除染廃棄物が高く積み上がっていた。[br][br] 「こんな小さなものから、大量の電気を生み出せるんです」。一人の男性が体育館に集まった町民たちの前で小指を立てて示した。50年以上前のある日、原発建設計画を説明したのは確か、東電の社員だった。当時国内でまだ数少なかった原発。会場の誰からも反対の声はなく、その後も周囲に事故への不安を口にする人はいなかった。[br][br] 多くの町民が米や野菜を作り、ほそぼそと暮らしていた双葉町。父親は戦前、農業だけでは食べていけず、第1原発が建設されることになる旧陸軍の飛行場で警備員を務めた。13歳の時、空襲で格納庫が黒煙を上げ燃えたのを覚えている。[br][br] 戦後、放置された飛行場は草ぼうぼうとなった。「売って大きなお金をもらおう」。地区の住民が共同で所有する土地を東電側に売り、第1原発が1971年に完成した。町の道路は広くなり、体育館や学校の建物は一新された。原発関連の仕事が増え、かつて当たり前だった出稼ぎはなくなった。「全部東電さんのおかげなんだ。今だって感謝はしている」[br][br] 40代の頃、農家の傍ら第1原発で警備員として働いた。給料は良かった。敷地内の様子は昔から知る風景とは違っていた。海抜35メートルあった断崖は掘削され、海面が近かった。海抜10メートルに建てられた原発は東日本大震災で津波にのみ込まれた。[br][br] 自宅は津波の被害はなかったが、原発事故で福島県内の除染で出た土壌や廃棄物を保管する中間貯蔵施設の予定地となった。江戸時代から先祖が少しずつ耕し広げてきた農地。妻に何度勧められても売る気になれず最終的に貸す形で妥協した。自宅は昨年解体された。[br][br] 3月に久しぶりに訪れてみると、何段も積み上がった黒い袋の前で、かつて妻と自宅の庭に植えたツバキが咲いていた。南相馬市に新築した家で、眠れない夜に何度も考える。「原発を造るとき断崖を半分残しておけば、事故は起こらなかったんじゃないか」[br][br] 10年たっても、心のざわつきは収まらない。町が活気づいたのも、故郷を捨てる羽目になったのも原発がやってきたからだった。「潤してもらったけど、この国に原発はもう要らないね」。廃棄物を運んだトラックが行き交う中、小さくつぶやいた。 中間貯蔵施設に囲まれた自宅跡を訪れた池田耕一さん。奥には廃棄物を入れた袋が積み上がる=10日午前、福島県双葉町