新型コロナウイルスの感染状況は落ち着きつつあるが、第2波、第3波への懸念がつきまとう。ワクチンや治療薬が開発されるまで、警戒が長く続くことは避けられないだろう。[br] 多くの死者を出す感染症は歴史上、たびたび北奥羽地方でも猛威を振るってきた。本紙地域面で5月下旬に「八戸藩時代の感染症」を連載したが、感染の経路や流行時の対応、人々の動きなどは、100~200年前も現代も似通った部分が少なくない。過去の体験に学び、教訓として生かすことは、医学が飛躍的に進歩した現代でも大いに役立つはずだ。[br] 江戸時代後期は人や物の動きが広域化し、これにより麻疹(はしか)や天然痘、インフルエンザなどの疫病も都市から地方へと、さほど月日を置かずにまん延することが多くなった。[br] 麻疹が全国的に流行した1862年、八戸で感染が拡大したのは、商家の息子が感染拡大のうわさが出ていた野辺地へ出掛けて感染し、家族や縁者へ広げたのが原因とされる。感染者が増加する中での軽率な行動が、周囲に感染を広げてしまう事例は現代でもみられた。[br] 新型コロナと同じく、地域経済への打撃も大きかった。八戸の商人・大岡長兵衛の『多志南美草(たしなみぐさ)』には「人もまばらで品物が売れず、市中が寂しいことは言いようがない」とある。一方で買い占めも起き、八戸城下では生活用品や豆腐、菓子類などが品切れ。三戸では稲刈りの担い手が不足して米が市場に出回らず、米価が高騰。酒屋による買い占めも拍車を掛けたという。[br] 都道府県をまたぐ移動が全面解禁となった現在も、東京都ではバーやナイトクラブなど接待を伴う飲食店での感染者が多く出ている。麻疹流行下の八戸でも、藩外からの船乗りが命を落とし、彼らを接客する遊女にも感染が広がった。[br] 現在人気のアマビエのような疫病の流行を予言する妖怪の登場も含め、感染拡大時の人々の行動、それに伴う事象は時代を隔てても大きくは変わらない。[br] 2011年の東日本大震災は869年の貞観(じょうがん)地震との類似性が指摘され、過去の震災にも注目が集まった。青森県や岩手県はインターネット上で過去の災害情報をまとめている。青森の場合、14世紀以降の地震に関しては、史料や市町村史、新聞記事を引用して発生の状況などを紹介している。[br] 感染症に関しても過去の事象に関する研究やアーカイブが進めば、冷静に行動する指針にもなるだろう。