沖縄戦、命拾った英語の歌 基地勤め葛藤、撤去願い

 米軍基地で小学校教師を長年務めた山里米子さん=8日、那覇市
 米軍基地で小学校教師を長年務めた山里米子さん=8日、那覇市
1972年の本土復帰から15日で49年となった沖縄県には、今も在日米軍専用施設の約7割が集中する。「日本政府や国民は沖縄の苦しみを分かっていない」。米軍基地で小学校教師を長年務めた那覇市の山里米子さん(86)は、戦争体験から基地撤去を願い「.....
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 1972年の本土復帰から15日で49年となった沖縄県には、今も在日米軍専用施設の約7割が集中する。「日本政府や国民は沖縄の苦しみを分かっていない」。米軍基地で小学校教師を長年務めた那覇市の山里米子さん(86)は、戦争体験から基地撤去を願い「なぜ沖縄だけに押し付けるのか。不平等だ」と憤る。[br][br] 沖縄が米軍統治下だった61年、基地で働く初の日本人教師の一人となった。米軍関係者の子どもに日本文化を教えるプログラムが始まるのに合わせ、英語を使って折り紙や歌を紹介。異文化理解の心を育んでもらおうと、仕事後に生け花や茶道、琉球舞踊を習い、授業に生かした。[br][br] 仕事にやりがいを感じる一方、基地で働くことに葛藤を抱え、定年退職するまで悩み続けた。「基地は戦争をするために人殺しの訓練をする場所。なくなってほしい」[br][br] 反基地の原点は太平洋戦争末期の沖縄戦。10歳だった45年、米軍が上陸した沖縄本島で、北部の森林地帯「やんばる」の山中に身を潜めた。[br][br] 弟や妹、祖母と小屋に隠れていたある日、米兵数人が現れ喉元に銃剣を突き付けられた。両手を合わせて拝む祖母。隣で「米兵が来たら歌いなさい」と父から習った英語の歌を口ずさみ、全員が命拾いした。父が校長を務める中学校の男子生徒らは、戦場に駆り出され帰らぬ人となった。[br][br] 「金さえもらえれば、占領軍の基地でも構わないのか」。戦後、基地で働くアジア人にばかにされ、唇をかんだ。米兵が交通事故で沖縄の人を死亡させても無罪になった時代。「日本になったら救われる」と信じ、本土復帰を願う大勢の人と行進して、集会で「沖縄を返せ」と歌った。[br][br] 復帰実現に「占領地ではなく日本の一員になった」と喜んだ。だが広大な米軍施設は今も残る。「反基地だが反米ではない。沖縄から世界平和を発信したい」。跡地を研究・教育機関が集まる国際文化都市にしたいと願っている。 米軍基地で小学校教師を長年務めた山里米子さん=8日、那覇市