天鐘(3月28日)

昨年10月の衆院本会議で、就任した直後の菅義偉首相がこんな答弁をした。「国民の政権への期待も、そこそこにある」。議場は何とも言えぬ空気に包まれた。ご記憶の方もおられよう▼「(国民の期待も)そこにある」と言いたかったようだが、手元の原稿を読み.....
有料会員に登録すれば記事全文をお読みになれます。デーリー東北のご購読者は無料で会員登録できます。
ログインの方はこちら
新規会員登録の方はこちら
お気に入り登録
週間記事ランキング
 昨年10月の衆院本会議で、就任した直後の菅義偉首相がこんな答弁をした。「国民の政権への期待も、そこそこにある」。議場は何とも言えぬ空気に包まれた。ご記憶の方もおられよう▼「(国民の期待も)そこにある」と言いたかったようだが、手元の原稿を読み違えた。首相自身の政権への評価が「そこそこ」なのだろうと揶揄されたが、まあ、単純な言い間違えは誰にでもある▼だが、先日の二階俊博自民党幹事長の発言は、ついうっかりではなかったはずだ。公職選挙法違反に問われた元法相・河井克行被告について、「党としても他山の石としたい」。耳を疑う一言だった▼「他山の石」とは、「自分の人格を磨くのに役立つ、他人の良くない言行や出来事」(広辞苑)。党にとって今回の一件は人ごとではあるまい。被告は元自民党議員だし、党から出た1億5千万円が買収の原資と疑われる▼原稿の棒読みを言われる首相をはじめ、政府や自民党の言葉に甘さや危うさが目立つ。先日は麻生太郎財務相が「マスクはいつまでやるのかね」と記者団に尋ねていた。それはそちら側の仕事だろう▼無責任や不誠実な言葉が重なれば「そこそこ」の信頼もなくなっていく。そういえば以前、加藤勝信官房長官が低い内閣支持率に「それには一喜一憂しない」と言っていた。間違いである。低いなら、しっかりと憂えてもらわなくては困るのだ。