【古賀稔彦氏死去】評伝 天才的センス、一世風靡

24日にがんで死去した柔道界のスター、古賀稔彦さんは天才的なセンスあふれる闘いぶりで一世を風靡ふうびした。大会直前に左膝の重傷を負いながら金メダルに輝いた1992年バルセロナ五輪の奇跡は不屈の闘志のたまものだった。 故郷の佐賀県を離れ、中学.....
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 24日にがんで死去した柔道界のスター、古賀稔彦さんは天才的なセンスあふれる闘いぶりで一世を風靡ふうびした。大会直前に左膝の重傷を負いながら金メダルに輝いた1992年バルセロナ五輪の奇跡は不屈の闘志のたまものだった。[br][br] 故郷の佐賀県を離れ、中学入学と同時に上京して柔道私塾「講道学舎」へ入門。「生きるか死ぬかを決心し、命懸けで勝負せよ」との教えを細身の体にたたき込まれ、スピードと美しさを兼備した担ぎ技を完成させた。[br][br] 本人いわく「人生最大の屈辱」が一流を超一流へと変貌させた。20歳で臨んだ88年ソウル五輪は優勝候補と期待されながら3回戦敗退。畳を下りて引き揚げる際、客席に視線を送ると母親が立ち上がって周囲に何度も頭を下げて謝っていたという。「おふくろが顔をくしゃくしゃにしていた。あの姿を見て『俺はここから絶対に強くなる。生まれ変わってやる』と決めた」[br][br] 壮絶な稽古量を積み、頰がげっそりとこけるほどの過酷な減量にも耐えた。世界選手権は89、91年と2連覇。バルセロナ五輪の名場面は屈辱的な経験が始まりだった。[br][br] 体重無差別の90年全日本選手権は伝説的だ。体重70キロ台前半ながら倍近くも重い相手をなぎ倒し、最後に力尽きたものの決勝は小川直也おがわなおやの巨体に真っ向から挑んだ。「小よく大を制する」を体現し、「平成の三四郎」はここに確立された。[br][br] 引退後は主に女子選手を指導し、個性を見抜く眼力があった。言葉に力があり、笑顔は常に若々しかった。「『私を見て』という表現力が大事。道場の中でパッと目立つ子が伸びる」。ただ古賀さんこそが、どこにいても自然と周りに人が集まった。華のある男が53年という短い生涯を駆け抜けた。(共同通信社運動部次長 田井弘幸)