【刻む記憶~東日本大震災10年】「野球していいのか…」 光星野球部、葛藤で臨んだセンバツ

震災当時、監督に就任して初の甲子園に臨んだ八戸学院光星高の仲井宗基監督(左)と小坂貫志部長=2月25日、八戸学院屋内練習場
震災当時、監督に就任して初の甲子園に臨んだ八戸学院光星高の仲井宗基監督(左)と小坂貫志部長=2月25日、八戸学院屋内練習場
2011年3月11日午後。東日本大震災の最初の揺れが始まったその時、選抜高校野球大会出場が決まっていた八戸市の光星学院高(現八学光星高)ナインら約40人は、関東上空の飛行機内にいた。キャンプ地から学校に戻る途中だったが、結局は帰校できないま.....
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2011年3月11日午後。東日本大震災の最初の揺れが始まったその時、選抜高校野球大会出場が決まっていた八戸市の光星学院高(現八学光星高)ナインら約40人は、関東上空の飛行機内にいた。キャンプ地から学校に戻る途中だったが、結局は帰校できないまま、大会出場を余儀なくされた。「本来は野球どころではないのでは…」。仲井宗基監督(50)、小坂貫志部長(42)はそんな葛藤と戦いながら本番に挑んだ。“あの時”の苦い経験を胸に、今も指導を続けている。[br][br] 仲井監督にとっては監督就任後、初の甲子園だった。センバツはそれまで未勝利。勝つために少しでもいい調整がしたい―と、屋外練習が可能な環境を求めて沖縄に初遠征した。仕上がりに手応えをつかんで地元に戻る飛行機内で突然、アナウンスが流れた。「東北で震度7の地震、各地で津波被害」。仲井監督は「機内がざわついていたのを覚えている」と話す。[br][br] 結局、飛行機は羽田空港に着陸できず、沖縄にとんぼ返り。夕飯にありつけたのは深夜になってからだった。那覇市内の飲食店に入ると、テレビでは各地の甚大な被害の様子が報じられていた。実家が八戸市湊町で魚の卸売業を営む小坂部長は「八戸の映像も流れただろうが、怖くて直視できなかった」。部員には宮城県や福島県出身者もいた。小坂部長は「動揺する生徒にどう言葉を掛けたらいいか分からなかった」が、まずは部員の家族の安否確認に腐心した。[br][br] 沖縄県立南風原(はえばる)高校の好意でナインらは、同校合宿所に1泊して大阪府内の宿舎に移動後、大会の開催が決定した。「多くの人が苦しんでいるのに、自分らは野球をしていていいのか」(仲井監督)。ジレンマはあったが、学校側の後押しもあり出場を決断した。[br][br] 本番で、仲井監督はナインを「野球ができることに感謝し、精いっぱい力を出し切ろう」と鼓舞し続けた。1回戦で水城(茨城)に快勝し、2回戦で智弁和歌山に惜敗。チーム悲願のセンバツ1勝を果たした大会だったが、仲井監督は「試合内容もほぼ覚えていないほど、自分自身、最後まで動揺していた」と当時を振り返る。[br][br] 大会を終えて帰郷し、惨状を目の当たりにしたナインたちは、近隣の避難所に救助物資を配る活動などにも取り組んだ。「実家は信じがたい状況だった。魚をさばく機械、買ったばかりの車もだめになっていた」と小坂部長。[br][br] 一部からは沖縄遠征や大会出場などに対する批判、中傷も受けたが、すべてを甘んじて受け入れ、地域に愛されるチームづくりに努めた。その後の躍進は周知の通り。甲子園では11年夏~12年夏に3季連続準優勝、14年夏、19年夏は8強入りと、東北屈指の強豪としての地位を築いた。[br][br] 仲井監督らは震災を教訓に、部員にはこう説いている。「野球ができることは決して当たり前じゃない。だからこそ、日々全力で取り組むんだ」震災当時、監督に就任して初の甲子園に臨んだ八戸学院光星高の仲井宗基監督(左)と小坂貫志部長=2月25日、八戸学院屋内練習場