戦国期三戸南部氏の拠点だった国史跡「聖寿寺館跡」(南部町)で、北東の一角に堀や溝に囲まれた約100メートル四方の方形区画が見つかった。室町時代の守護大名クラスの武家居館が立地した区画と同程度の規模。町教委は、東北最大級の掘立柱建物跡などが発見された中心区画とは別に、隠居した前当主あるいは次期当主が住む居館など重要な施設があった可能性を指摘する。文献ではほとんど分からない城館の構造が、今後の発掘調査でより明らかにされることを期待したい。[br] 聖寿寺館は本三戸城とも呼ばれ、1539年に焼失したと文献に記録される。南部氏一門を束ねる惣領(そうりょう)の地位を確立した三戸南部氏はその後、三戸城、福岡城(二戸市)と拠点を移し、江戸時代に盛岡藩を築いた。[br] 発掘調査は中心区画の発見により飛躍的に進展した。陶磁器の出土状況から、文献に記される通り16世紀前半までの拠点としての利用が証明され、15世紀前半ごろの築城と考えられることも分かった。希少な海外陶磁器、東北地方初の金箔(きんぱく)かわらけなど、三戸南部氏の権威の高さを示す出土品も多い。[br] 今回見つかった方形区画は、これら多くの発掘成果を上げた中心区画の東側。町教委は区画の用途について、城が拡張される前の古い段階の当主の居館、次期当主か隠居した当主の居館などの可能性を指摘する。[br] 権力をスムーズに移行するため、戦国領主の死去前の当主交代は珍しくない。南部一族である八戸氏の根城(八戸市)でも、発掘調査では遺構が確認されていないが、八戸一族新田(にいだ)家の記録に、八戸氏当主が家督を子に譲って城内に隠居したとある。聖寿寺館でも同様の事例があったのかもしれない。[br] 今後の調査で居館の遺構が発見されるかは分からないが、倉庫や工房と思われていた区画がより重要な性格を持っていた可能性が高まったことで、全体の構造の見直しが必要になった。[br] 聖寿寺館を巡っては、東北最大級の建物跡について、一棟ではなく複数の建物が渡り廊下などでつながっていたとみる研究者もいる。2階建ての建物があったかどうかや、庭の存在についても議論がある。今回の区画内の利用法についても、さまざまな意見が出るだろう。[br] 町教委は南部学研究会や南部ふるさと塾を定期的に開催し、青森県内外の研究者の見解を聞く場面に恵まれている。こうした機を捉えて多角的に検討を加え、慎重に聖寿寺館の謎を解き明かしてほしい。