平出(ひらいで)英夫は駐在武官としてフィリピンに滞在した際、人生で唯一、間近で戦闘に遭遇している。日本軍が多大な兵力をつぎ込み、艦隊戦力を事実上喪失した1944年10月のレイテ沖海戦である。この敗因には、大本営発表が少なからず関係している。[br] 辻田真佐憲(まさのり)著「大本営発表」(幻冬舎、2016年)によると、同海戦の数日前、日本軍は台湾沖で米軍と航空戦となったが、軽微な戦果にとどまり、逆に航空兵力を大きく損失した。だが海軍は、現地からの過大な戦果報告を確かめることなく、「空母19隻、戦艦4隻」などを撃沈・撃破―と発表。昭和天皇がわざわざ勅語を発し、久々の“戦果”をたたえたため、報道部関係者は訂正の機会を失う。[br] 軍の上層部も、米軍戦力が壊滅したと誤認して一挙にレイテ沖へ戦線を展開し、実際は十分な戦力を有していた米軍の返り討ちに遭った―というのが真相だった。[br] フィリピンに米軍上陸の危機が迫る中、平出は体調をさらに悪化させて一足先に帰国。東京への空襲で仮住まい先を焼け出された。45年8月の玉音放送に接したのは、同月に北海海軍軍需監理部第三部長という閑職で赴任したばかりの北海道だった。[br] 戦後の同年11月には、連合国側の尋問を受けており、一問一答などの史料が今も残されている。連合国側は真珠湾攻撃を知った時期や、マッカーサーとゆかりの深いフィリピンでの職務について追及しているが、平出は決定的な証言をすることはなく、体調不良による記憶力低下にも言及している。連合国側は平出による、戦時中のプロパガンダへの関与を既に把握していたものの結局、起訴することはなかった。[br] 極東国際軍事裁判に詳しい中央大商学部の宇田川幸大准教授によると、同裁判では戦勝国に対する加害への処罰、特に対英米開戦に対する責任や捕虜への虐待などに主眼が置かれ、その他の違法行為は積極的に取り上げられなかった。[br] 「平出に対する尋問は、宣伝政策が主な争点になっておらず、質問もピントが外れている印象が強い。この尋問では、平出からほかの戦犯を追及するための情報を収集することに力点が置かれているように見える」と分析する。[br] 平出は48年12月15日、出生地の大三沢町(現・三沢市)で息を引き取った。享年52。青森県の地元紙は遅れること同23日付の朝刊に、5行ばかりの訃報を掲載している。この日の遅版の1面トップは同日深夜に執行された、東條英機らA級戦犯7人の絞首刑を伝える記事だった。