本年度は明治初期の戊辰戦争で敗れた会津藩が斗南藩として再興し、田名部(現むつ市)に藩庁が置かれてから150年の節目となる。廃藩置県で2年足らずで消滅するが、元藩士や子孫が青森県発展に果たした功績は大きく、あらためて歴史を見詰め直す機会としたい。[br] 会津藩は朝敵・逆賊の汚名を着せられ、戦争責任を負わされて滅藩。それから1年後の1869年11月、政府から9代藩主松平容保(かたもり)の長男容大(かたはる)への家督相続が許されて立藩したのが斗南藩だった。領地として与えられたのは陸奥国3郡(現在の下北郡、上北郡の一部、三戸郡、二戸郡の一部)。70年4月、最初の藩庁が五戸代官所跡に置かれ、71年2月に同市田名部の円通寺に移された。海上交易に活路を開く狙いもあったようだ。[br] 斗南藩の石高は、公称23万石の会津藩に遠く及ばない3万石。実質は火山灰地質の厳寒不毛の地が多く、7千石程度しかなかったといい、移住してきた1万7300人は飢え死にや病死が相次いだ。寺院に残る過去帳には、空腹に絶える生活の記録が残っており、いかに過酷だったかがうかがえる。[br] 斗南藩は71年7月の廃藩置県で消滅。コメの支給打ち切りなどもあり、移住者の多くが斗南の地を去ることになる。まちづくりや産業育成の構想は道半ばに終わり、希望を見いだした新天地で、ただ辛苦を味わい、時代に翻弄(ほんろう)された藩士のやるせなさは察するに余りある。[br] 歴史は短命だったが、残した功績で最も大きいのは教育であろう。田名部で藩校日新館を再開し、領内各地に分校として郷学校を開設。移住者だけではなく、地元の子どもたちにも開放した。廃藩置県後、斗南の地にとどまった藩士も青森県内各地に設立された小学校の教員を務め、教育振興に寄与した。[br] 藩士の子孫も教育界や地方自治で活躍したが、今の若い人たちはどれほど理解しているだろうか。歴史を語り継ごうと活動する各地の団体も会員の高齢化が進み、今後に危機感を抱いていると聞く。むつ市は姉妹都市の会津若松市と子ども同士の交流などを続けている。地域に誇りを持ち、歴史を後世に受け継ぐ取り組みとして継続を期待したい。[br] 下北地域の藩士の子孫らでつくる斗南會津会は本年度、藩の市街地があった、むつ市内の史跡地整備などの記念事業を計画している。節目の年に、こうしたゆかりの地を巡ったり、書籍を読んだりし、先人の功績に思いをはせたい。