【刻む記憶~東日本大震災10年】「災害語り部」の館合さん、震災の記憶を後世に

災害語り部として東日本大震災の教訓を伝える館合裕之さん=7日、八戸市
災害語り部として東日本大震災の教訓を伝える館合裕之さん=7日、八戸市
「災害は自分の想定を上回るが、安全は用意できる」。2月7日、八戸市水産科学館マリエントで開かれた防災教室。青森県防災士会の防災士館合裕之さん(55)の話に、訪れた市民がじっくりと聞き入っていた。館合さんは市職員として働きながら、東日本大震災.....
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 「災害は自分の想定を上回るが、安全は用意できる」。2月7日、八戸市水産科学館マリエントで開かれた防災教室。青森県防災士会の防災士館合裕之さん(55)の話に、訪れた市民がじっくりと聞き入っていた。館合さんは市職員として働きながら、東日本大震災をきっかけに創設された、消防庁の「災害語り部」として全国を飛び回る。未曽有の大災害の教訓を生かすため“伝道師”は、「あの日」に向き合い続ける。[br][br] 同市で生まれ育ち、1994年に入庁。その夏に大雨災害、12月に八戸で震度6を観測した三陸はるか沖地震を相次いで経験した。さらに年明けに関西で阪神大震災が起きた。市職員1年目に立て続けに大きな災害を目の当たりにしたことが、今の活動の原点だ。[br][br] 「自分にできることが何かあるのでは」。入庁以来ずっと思い続け、2006年に防災担当部署への異動を機に、防災士の道を志した。[br][br] 防災士になるための研修では、過去の事例から、あらためて被害の恐ろしさを学び、防災の役割について理解を深めた。自ら被災地へも足を運び、災害の教訓をどう生かせばいいのかを模索した。[br][br] そんな中で発生した11年の東日本大震災。過去の災害で救援物資における需要と供給のミスマッチが問題となったことを踏まえ、物資の仕分けに奔走した。被災者が本当に必要な物資を届けるため、時には受け入れを断る決断をしながら作業に徹した。[br][br] 培った知識と経験を多くの人に伝えたい―。震災後、消防庁が進める災害伝承プロジェクトに参加し、震災語り部としての活動も開始。市内のほか、全国各地を巡り、震災の記憶を後世に残すため、現状や課題を伝え歩いた。[br][br] 講演中は、被害の様子を収めた映像を極力使わない。人によって、つらい記憶が呼び起こされ、心的外傷後ストレス障害(PTSD)のきっかけにもなり得るためだ。[br][br] 講演する自身もその症状に悩まされてきた。3歳の時に、八戸で震度5を観測した1968年の十勝沖地震を経験。記憶はおぼろげだが、強い揺れの中、目の前でテレビが落下した場面が脳裏に焼き付き、その恐怖が度々よみがえる。「怖かった体験が心から消えることはない。幼ければなおさらのこと」。講演中に脈拍が乱れ、数日間体調を崩すこともある。[br][br] それでも語り部を辞めるつもりはない。「災害に苦しむ人たちを増やさないためにも、自分自身を守る防災の重要性を伝えたい」。使命感が館合さんを突き動かす。災害語り部として東日本大震災の教訓を伝える館合裕之さん=7日、八戸市