【刻む記憶 鉄路をつなげ】(1)八戸駅長の苦悩

震災当時、八戸駅長を務めていた西野重俊さん。今でも「あの時の指示は正しかったのか」と自問自答し続ける=2020年11月、八戸駅東口
震災当時、八戸駅長を務めていた西野重俊さん。今でも「あの時の指示は正しかったのか」と自問自答し続ける=2020年11月、八戸駅東口
2011年3月11日、JR八戸駅では白の車両に交じり、6日前にデビューした真新しい緑の車両が行き交っていた。東北新幹線はこの3カ月余りで大きな節目を迎えた。10年12月に新青森駅が開業し、全線開業を果たしたのに続き、3月には最高時速300キ.....
有料会員に登録すれば記事全文をお読みになれます。デーリー東北のご購読者は無料で会員登録できます。
ログインの方はこちら
新規会員登録の方はこちら
お気に入り登録
週間記事ランキング
 2011年3月11日、JR八戸駅では白の車両に交じり、6日前にデビューした真新しい緑の車両が行き交っていた。東北新幹線はこの3カ月余りで大きな節目を迎えた。10年12月に新青森駅が開業し、全線開業を果たしたのに続き、3月には最高時速300キロで運行する新型車両E5系「はやぶさ」が営業運転を開始。八戸駅でも立て続けに出発式を行ったばかりで、駅長の西野重俊さん(55)は、まだ冷え込む構内に残る余韻を感じながら、春の観光シーズンを待ち遠しく思っていた。[br][br] ホームでは新幹線の利用客が列を作り、大きな荷物を抱えた家族連れも見えた。週末に合わせて東京へ旅行だろうか―。「12番線に参ります電車は14時57分発、はやて30号東京行きです」。係員のアナウンスが次の列車を知らせていた。[br][br]  ◇  ◇  ◇[br][br] 洋野町出身の西野さんは八戸市内の高校を卒業後、国鉄に入った。30代の頃に横浜へ3年間出向した以外は、盛岡鉄道管理局で主に営業畑を歩み、釜石線営業所長兼釜石駅長を経て10年6月に八戸駅長兼八戸地区駅長として赴任。全線開業に向けたイベントなどの準備の大仕事を任された。[br][br] 青春時代を過ごした八戸で歴史的瞬間に立ち会える喜びと重圧。新青森駅開業と新型車両デビューを無事に終えたのもつかの間、春の大型連休から始まる「青森デスティネーションキャンペーン(DC)」を控え、まだまだ気の抜けない日々が続きそうだった。[br][br] 午後2時46分すぎ、赴任以来日課とする、観光客の案内のため、駅西口から改札内へ向かっていた時、建物のきしむガタガタという音に気付いた。「これはでかい」。小刻みな揺れは、たちまち大きな横揺れに変わった。[br][br]  ◇  ◇  ◇[br][br] 自由通路には新幹線の利用客や八戸線で通学する学生らが数多くいた。悲鳴が響く中、照明や電光掲示板の光が一斉に落ちた。西野さんは盛岡市の輸送指令に連絡を取った。[br][br] 「列車は動くのか?」[br][br] 「今日は動かせない」[br][br] 返ってきたのは叫びに近い声だった。すぐさま利用客に全列車の運転見合わせを説明し、駅近くの公民館への避難を呼び掛けた。[br][br] 構内が落ち着きを取り戻してもほっとする暇はなかった。西野さんは駅員十数人を駅東口のイチイの木の下に集めた。[br][br] 「これから私たちが何をするか分かるか。動けなくなった上下の新幹線を救済するのが一番の仕事だ」[br][br] 到着目前だった新幹線は地震で、八戸から約15キロ付近に緊急停車し、上り車両に310人、下り車両に500人を乗せたまま、身動きが取れなくなっていた。[br][br] 続く余震。自分の家族の安否すら分からない中、胸が張り裂ける思いで尋ねた。「救済に行ってもいい者は」。全員が手を挙げた。どの顔にも一様に悲壮感があふれていた。[br][br] その頃、停電し暗く寒い新幹線車内では乗客の怒号が飛び交っていた。 「どうなってんだ!」「早く助けろ!」[br](肩書、年齢は当時)[br][br]   ◇    ◇[br][br] 青森県民悲願の東北新幹線全線開業、E5系はやぶさ投入、九州新幹線全線開業など、2010年度は日本の高速鉄道にとって新たな時代の幕開けだった。そのさなかに起こった未曽有の大災害。混乱を極める駅、車内からの乗客避難誘導、津波による線路の流失、度重なる余震―。東日本大震災で被災した路線の復旧や復興に携わった、JR東日本盛岡支社の鉄道マンたちの奮闘を振り返る。震災当時、八戸駅長を務めていた西野重俊さん。今でも「あの時の指示は正しかったのか」と自問自答し続ける=2020年11月、八戸駅東口