本紙文化面連載「戦国の北奥羽南部氏」が今月で終了した。江戸時代の編さん物に極力頼らず、同時代の文書をベースに南部氏の歴史をひもといた。[br] 中世から近世にかけてこの北奥羽地方を支配した南部氏に関する研究は『新編八戸市史』『青森県史』の編さん事業などを通じて近年、大きく前進した。一方、中世の南部氏に焦点を当てた通史的な書籍は極めて少ないのが現状で、こうした研究成果に触れられる“チャンネル”を設ける必要性を感じ、始めた連載であった。[br] 八戸工業大二高教諭の熊谷隆次氏、八戸市立図書館(連載開始時は市博物館)の滝尻侑貴学芸員の2人を執筆陣の中心に据え、考古学も含めた県内外の研究成果を取り入れて、一般に浸透している古い説も数多く見直した。[br] 既に先行研究で指摘されていることだが、南部氏の祖という光行の糠部(ぬかのぶ)郡(青森県南、岩手県北両地方)下向の否定もその一つ。光行から数代は鎌倉幕府の将軍や執権の周辺で活動しており、同時代の史料で糠部とのつながりが見えるのは、14世紀前半、根城を築いた南部師行(もろゆき)と、政長の兄弟からである。[br] 江戸時代の系譜類では、師行の系統(根城南部氏)は南部氏の庶流とされているが、盛岡藩を築いた三戸南部氏と、その家臣となった根城南部氏の家格差を示すために系譜が創作されたとみられている。三戸氏がどこから生まれ、どの時期に、どのように根城南部氏を超越して南部氏一門を束ねる惣領(そうりょう)的地位を手にしたのかはいまだ謎で、さらなる研究の深化が望まれる。[br] また、連載では弘前藩の祖・大浦(津軽)為信が南部氏に反旗を翻した時期について、津軽側の編さん物が示す通説的な1571年説を否定し、書状の年代見直しによって1589年とした。わずか1年で津軽を平定したというのだ。為信の出自も新しい仮説を提示した。[br] 戦国期を代表する三戸南部氏当主の晴政と信直に挟まれた晴継が、当主には就いていない可能性も指摘した。九戸一揆については豊臣軍を苦しめたとする物語とは異なり、九戸城は包囲からわずか4日で陥落し、従軍した武士の回想には九戸側から降伏を願い出たとの記述があることも紹介した。[br] 連載の見解に反論もあるかもしれない。その繰り返しが、さらに南部氏の実像に一歩近づく。物語的な面白さだけでなく、研究でアップデートされていくという歴史の楽しみ方を多くの人に知ってもらいたい。