三陸津波の教訓今へ 「地震海鳴りほら津浪」の石碑改修/八戸

完成した記念碑を訪れた中村会長。正面には「地震海鳴りほら津浪」と記される=1日、八戸市の館鼻公園
完成した記念碑を訪れた中村会長。正面には「地震海鳴りほら津浪」と記される=1日、八戸市の館鼻公園
1933年(昭和8年)に東北地方沿岸部を襲い、甚大な被害をもたらした昭和三陸地震の大津波。その教訓を伝える「海嘯(かいしょう)災記念碑」が八戸市の館鼻公園にある。津波の危険を訴え、古里を災害から守ってきたが、長い年月でぼろぼろになり、いつし.....
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 1933年(昭和8年)に東北地方沿岸部を襲い、甚大な被害をもたらした昭和三陸地震の大津波。その教訓を伝える「海嘯(かいしょう)災記念碑」が八戸市の館鼻公園にある。津波の危険を訴え、古里を災害から守ってきたが、長い年月でぼろぼろになり、いつしか市民にも忘れ去られていた。先人の思いが詰まった貴重な記念碑が9月下旬、市によって改修され、現代によみがえった。作業に尽力した市内の「中ペン塗装店」の中村昭則会長(70)は「津波への心構えを新たにするきっかけになれば」と願いを込める。[br][br] 「地震海鳴りほら津浪(波)」。記念碑の正面には、迫り来る津波の脅威を身をもって経験した先人たちのメッセージが刻まれる。[br][br] 関係者によると、記念碑は全国から寄せられた義援金を元手に、青森県内では八戸のほか、被害のあった三沢市に2基、おいらせ、階上両町に各1基が建立された。[br][br] 同公園の1基は所有者が定まっておらず、長年“放置”され、老朽化が著しかったという。これを受け、同公園を管理する市は、改修工事を計画。ボランティア活動でよく訪れ、記念碑を気に掛けていた中村会長が請け負った。[br][br] 青銅板に教訓として記された文言は、風雨の浸食で消えかけ、塔をイメージした本体部分のコンクリートもはげ落ちる危険性があった。完成当時の写真は見つからず、手探りの作業が7月下旬にスタートした。[br][br] 中でも苦労したのは、塔の足元に取り付けられた津波を模した飾りの修復。鋳物で3分の1は既に崩れていた。津波のうねりを表現するには繊細な技術が求められた。白羽の矢が立ったのが、科学出前講座や本の出版、彫刻家など多岐にわたって活動する萠出(もだし)浩さん(60)=東北町=だった。[br][br] 「命の危険を伝えるべく、手間暇を惜しまず作ったものだとすぐに分かった。先人の思いをそのまま伝えなければいけないと考えた」と記念碑を見て感銘を受けた萠出さん。「どうせならば面白い挑戦を」と、奈良の大仏と同じ方法という昔ながらの技法で型取りや彫刻を施した。[br][br] 色ははげたのか鋳物そのままの赤銅色となっていたが、砂を巻き上げ迫る海水を薄暗い青色で表す現代風のアレンジも加えた。当時の職人と会話を楽しむように作業に没頭した。[br][br] 作業中に公園を訪れる人々の多くは記念碑の存在を知らず、「しっかり完成させなければ」と一層身が引き締まったという中村会長。再び命が吹き込まれた記念碑が伝える大事なメッセージを見上げ、「公園を訪れる子どもたちにも、津波の歴史を知ってほしい」と力を込めた。完成した記念碑を訪れた中村会長。正面には「地震海鳴りほら津浪」と記される=1日、八戸市の館鼻公園