【連載・虚しき報せ】(3)最盛期 親しみやすさで人気に

スポーツ雑誌で大相撲の横綱双葉山(左)と対談する平出英夫(「野球界」1942年第24号より)
スポーツ雑誌で大相撲の横綱双葉山(左)と対談する平出英夫(「野球界」1942年第24号より)
平出(ひらいで)英夫が大本営海軍報道部課長を務めたのは1940(昭和15)年7月から43年7月までの3年間に及ぶ。この間の平出は、ブームと呼んで差し支えないほどメディアへの登場が増えている。 まずは雑誌。海軍関係の資料が多い昭和館(東京)所.....
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 平出(ひらいで)英夫が大本営海軍報道部課長を務めたのは1940(昭和15)年7月から43年7月までの3年間に及ぶ。この間の平出は、ブームと呼んで差し支えないほどメディアへの登場が増えている。[br] まずは雑誌。海軍関係の資料が多い昭和館(東京)所蔵だけで、平出名義の記事は107本ある。登場する媒体は総合雑誌から週刊誌、映画雑誌、スポーツ誌、女性誌、少年・少女誌、地方の業界誌まで幅広い。[br] 内容も▽イタリア滞在時の欧州情勢▽米国の戦力分析▽銃後(戦地に赴かない国民)の鼓舞▽芸術による戦意高揚―など多岐に及ぶ。講演やラジオ演説をそのまま転載したものもあり、演説原稿をまとめた冊子やレコードも発売された。[br] 平出の真骨頂は、例えば次のような発言にある。[br] 〈皆さん、どうぞ『じぶんのようなものの力が…』という観念を今日限り、お捨てください。皆さんの強い気魄(きはく)、固い意志力、真剣な生活の工夫、それは思想戦の強力な武器であるばかりでなく、直ちに武力戦の戦力と変るのです〉(「主婦之友」43年6月号)[br] 〈私なんか軍人といっても戦ってないから、実際恥(はずか)しいようなものです〉(「映画之友」42年4月号)[br] 戦況を分かりやすく語るだけでなく、女性や子どもにも目を配り、時に自虐を交えて親しみを見せる。こうした腹芸ができる軍人はまれだった。[br] 一方、新聞では主に、平出の(虚偽を含んだ)敵国分析や戦況報告を行った講演、ラジオ演説の要旨がたびたび全国の紙上を飾った。当時発行されていた東北地方の地方紙6紙を比較すると、全6紙が初めて足並みをそろえたのは42年1月9日付。前日のラジオ演説「世界を開く日本」を一斉に紹介している。[br] ただ、それ以降の掲載頻度や扱いの大きさには各紙で温度差がある。最も熱心だったのは、平出の出身・青森県の地元紙だ。ほかの5紙のような通信社からの配信記事だけでなく、自社取材による独自記事も多く、熱の入れようが伺える。[br] こうした“平出ブーム”は、国が掲載を強制したものだったのか。近現代史研究者の辻田真佐憲(まさのり)さんは「戦時下にも一定の需要と供給があった。売れる見込みがなければ、当時高価だったレコードを製作するとは思えない」と指摘する。[br] 戦前の新聞検閲に詳しい青森県県民生活文化課県史普及担当の中園裕主幹は、平出の能力を認めつつ「親しみやすい人物による演説や講演が、国民感情に与えた影響力は非常に大きい。結果的に国民が戦争継続を支持する上で大きな効果を持った」と注意を促す。[br] 平出の最盛期はしかし、戦況と同様、長くは続かなかった。敗色が色濃くなった43年に入ると、露出度は急速に減少。同年5月ごろに体調を崩したこともあり、7月に報道部1課長を退任、12月にはフィリピン駐在武官として赴任した。平出はこれ以降、虚偽の大本営発表による因果応報を自ら痛感することになる。スポーツ雑誌で大相撲の横綱双葉山(左)と対談する平出英夫(「野球界」1942年第24号より)