【新型コロナ】北奥羽を襲った疫病、過去に潜むヒント

1886(明治19)年に流行したコレラの犠牲者を弔う供養塔=八戸市湊地区の十王院
1886(明治19)年に流行したコレラの犠牲者を弔う供養塔=八戸市湊地区の十王院
新型コロナウイルスの感染拡大で、国内外では市民に動揺や混乱が広がり、収束の兆しが見えずにいる。一方、人類の歴史は度重なる疫病の流行と、その克服の歩みでもあった。北奥羽地方における災禍の過去を振り返ると、現在の私たちが改めて心掛けるべきヒント.....
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 新型コロナウイルスの感染拡大で、国内外では市民に動揺や混乱が広がり、収束の兆しが見えずにいる。一方、人類の歴史は度重なる疫病の流行と、その克服の歩みでもあった。北奥羽地方における災禍の過去を振り返ると、現在の私たちが改めて心掛けるべきヒントが隠されていた。「詳細な記録が残る江戸時代以降だけを見ても、八戸は疫病などの災厄にとても見舞われやすい土地だったんです」。八戸市博物館の山野友海学芸員は、八戸地方における疫病の歴史をそう解説する。[br] 「新編八戸市史」や、同館がまとめた特別展「災害と八戸」の展示図録によると、八戸藩の治世から風邪やはしか、腸チフス、コレラ、天然痘がたびたび流行し、多くの犠牲者を出してきた。大規模な飢饉(ききん)の際は餓死者や土地を離れた者を含め、藩の人口がほぼ半減したこともある。[br] 1886(明治19)年には沿岸部を中心にコレラが流行し、罹患(りかん)者約2300人のうち6割が死亡。犠牲者の供養塔が今も市内各所の寺院に残っている。[br] 特に藩政期の“パンデミック”は、現代に比べて医学知識や衛生環境が不十分だった上、やませなどの天候不順による凶作や飢饉の頻発も大きな要因となった。餓死者が多発すると、埋葬できずに放置された遺体が病原菌を媒介。食糧不足で免疫の低下した人々の罹患・落命に拍車を掛けた。[br] 救済策も寺院や有力者による民間救済が先行し、当時の政治行政機関である八戸藩は多くの場合、積極的な対策を講じなかった。その結果、働き手の減少で農業生産が回復しないなど、人為による凶作の発生という悪循環を招いている。[br] 明治期のコレラ禍では、感染を知られたくないという患者らの心情も根強く、早期隔離などの対策の遅れにつながった。山野学芸員は「当時は集落ごとの人間関係が密接だった分、災いを持ち込んだ人間に対する悪感情も激しかったはず。医学的見地に基づく施策の意義も浸透していない中、身近な差別を恐れる余り、悲劇が拡大した一例では」と解説する。[br] 翻って、現在はどうか。国による感染対策・経済的救済措置のスピードや内容には、厳しい批判が相次いでいる。民間レベルでは、誤った情報に基づく必要物資の買い占めが起きた。過去の失敗や試行錯誤から学ぶべきことは、まだまだありそうだ。[br] 山野学芸員は「昔は情報不足、今は情報過多という違いはあるが、未知の感染症を恐れる感情は古今東西、ごく自然なもの」と捉える。「大事なのは今の感染禍も、人類が過去に幾度も経験した試練の一つだと知り、歴史に学ぶことではないか」と指摘する。1886(明治19)年に流行したコレラの犠牲者を弔う供養塔=八戸市湊地区の十王院