「深くおわびします」と述べたかと思えば「重度障害者を殺害した方がいい」と事件を正当化する。謝罪と正当化。両立し難い深い亀裂をどこまで自覚しているのか、疑問が深まるばかりだ。[br] 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者ら45人を殺傷した罪に問われた元職員、植松聖被告。遺族らの質問に対する回答は支離滅裂だが、その姿は自己本位を優先しがちな現代社会を映し出しているようだ。[br] これを一つの問題提起と捉えたい。障害者であれ誰であれ、幸福追求の権利は奪われないよう、社会づくりに生かしていくことが重要になる。[br] そのために必要な視点は二つある。一つは被告の刑事責任能力にとらわれ過ぎないことだ。弁護側は「大麻精神病により、心神喪失か心神耗弱だった」と無罪を主張。これに対し検察側は「特異な考え方」だとして完全責任能力があったと反論する。当然の応酬だが、それは裁判の枠組みでの争いにすぎない。[br] クローズアップされているのは、能力で命を選別する優生思想だ。これは不良な子孫の出生防止を掲げて障害者らに不妊手術を強いた旧優生保護法やハンセン病患者の問題と重なる。不当な差別を解消する社会意識を育てなければならない。[br] 次に重要な視点は動機などの分析を具体的施策に生かすことだ。事件の持つ意味や背景に目を向けたい。例えば被告は「重度障害者は不幸のもと」「お金と時間を奪っているから」と述べているが、そうした弱者排除、過度な生産性重視の考え方を点検し、教育、福祉行政、防犯対策などを見直す必要がある。[br] 被告自身、自分のしたことの重大さに対処しきれず、整理ができていないようだ。見えてくるのは、刑を軽くするためなら何でもやるかのような個人的利益の追求で、小指をかみ切ろうとしたのは精神的異常性を誇張する演技にも見える。[br] 利益追求の貪欲さ、弱者への優越性を保とうとする態度。それらは特異な人格の表れだろうが、そうした社会風潮に流された若者の姿なのかもしれない。[br] 動機は明瞭ではない。意識したいのは、刑事裁判による真相解明には弁護方針とも絡んだ限界があることだ。生い立ちに関する遺族の質問は弁護側の異議で制止された。裁判任せにしない対策が各方面に求められる。[br] お互いを尊重して生きていく社会にしなければならない。事件をどこまで教訓にできるか。未来を開く鍵がそこにある。