【斗南藩ゆかりの地探訪】(11・完)神田重雄像(八戸市)

八戸港発展の礎を築いた功績をたたえ、同港を見渡せる館鼻公園に神田重雄の像が建つ=八戸市湊町
八戸港発展の礎を築いた功績をたたえ、同港を見渡せる館鼻公園に神田重雄の像が建つ=八戸市湊町
八戸港を一望できる八戸市湊町の館鼻公園には、斗南藩士の子孫である第2代八戸市長神田重雄の像が立つ。神田は八戸町の町村合併を成し遂げるなど市制施行に尽力したほか、同港発展の礎を築いた“名市長”として現在も語り継がれる。 神田の祖先は戊辰(ぼし.....
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 八戸港を一望できる八戸市湊町の館鼻公園には、斗南藩士の子孫である第2代八戸市長神田重雄の像が立つ。神田は八戸町の町村合併を成し遂げるなど市制施行に尽力したほか、同港発展の礎を築いた“名市長”として現在も語り継がれる。[br][br] 神田の祖先は戊辰(ぼしん)戦争で会津を追われ、八戸へ移った。湊村館鼻の家で産声を上げた神田は、湊小高等科を卒業し、旧斗南藩士の私塾で学んだ後、16歳で北海道根室に渡り、郵便局の電信係をしながら教員検定試験に合格。21歳で湊尋常小教員となり、翌年旧会津藩士の次女すゑと結婚した。[br][br] その後、湊村役場書記を経て旋網漁を経営。水産界で頭角を現し、政界へ進んだ。「海を拓(ひら)けば陸が拓ける」の信条の下、湊村議を経て三戸郡議となり、鮫築港運動の旗手として活躍。後に青森県議となって鮫港を着工させた。現在の八戸港の姿は、神田が描いた構想がほぼ下地になったといわれる。[br][br] 3期12年にわたる神田市政の特徴は、自ら構想を描き、その実現のため中央政府に出向いてパイプを築き、財源を呼び込むことだった。続けざまに八戸港の重要港湾への編入、八戸測候所の設置や馬淵川改修工事を要請。戦後、新産業都市へ飛躍する下地を築いた。[br][br] 神田の功績はハード面にとどまらない。経済の不安定な街に活気を呼び起こそうと、法師浜桜白らと一緒に「八戸小唄」を作ったほか、鳥瞰(ちょうかん)図画家の吉田初三郎の協力を仰ぎ、種差海岸の名勝指定に力を尽くした。[br][br] 終生、人生の師として芭蕉を仰いだ神田はこんな句を残す。「天職や倒るるまでの案山子かな」。58年、功績をたたえ、生を受けた館鼻の地に銅像が建てられた。[br][br] 1871年の廃藩置県により、わずか2年で消滅した斗南藩。時代に翻弄(ほんろう)されながらも、青森県に残った斗南藩士の家系からは神田をはじめ、県知事を4期務めた北村正●ら、県発展に寄与した政治家や教育者らが多く出た。新しい故郷を興した不屈の会津魂は、今に受け継がれている。[br][br] 【義足で迎えた市制施行】[br] 神田の人生は左脚の疾病との闘いだった。11歳の頃に竹スケートで坂を滑って転倒した際に負った傷が骨膜炎を引き起こし、何度も手術を受け治療したが全治することはなかった。54歳の頃に階段を踏み外し、全身の重みを左脚に受けたことが原因で古傷が悪化。八戸市制施行間際の1929年4月、左脚を切断するに至った。義足での生活を余儀なくされながらも、同市議に当選し、初代議長に就任。翌30年には市長選に出馬し当選した。3期12年の任期中、昭和恐慌、日中戦争、太平洋戦争と厳しい世相と対峙(たいじ)した。[br][br]【編注】●は「哉」の「ノ」をとった異体字八戸港発展の礎を築いた功績をたたえ、同港を見渡せる館鼻公園に神田重雄の像が建つ=八戸市湊町