天鐘(3月26日)

江戸初期、「柳川(やながわ)一件(いっけん)」と呼ばれる事件があった。日朝の国交回復を仲介した対馬藩が、事もあろうに幕府の「国書」を長年にわたり改竄(かいざん)し続けていたという一大不祥事だ▼対馬藩の家老柳川調興(しげおき)が藩主の宋義成の.....
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 江戸初期、「柳川(やながわ)一件(いっけん)」と呼ばれる事件があった。日朝の国交回復を仲介した対馬藩が、事もあろうに幕府の「国書」を長年にわたり改竄(かいざん)し続けていたという一大不祥事だ▼対馬藩の家老柳川調興(しげおき)が藩主の宋義成の代に内部告発して露見した。家康の小姓として仕え、直臣並みの待遇を受けていた調興が主家と対立。独立して旗本への昇格をもくろみ、初代から続く悪事を暴露した▼朝鮮出兵で断絶した国交の回復交渉を担っていた同藩は、国書で謝罪を求める朝鮮に、幕府に無断で「偽造国書」を提出。二十数年にわたり国書ばかりか返書も勝手に書き替えていたという事件に幕府は激怒した▼将軍家光は諸大名を列座させて両者を喚問。義成の「幕閣と親しい調興の権勢を恐れて家臣は不正を上申できなかった」との釈明を認め、「首謀者は調興」と裁定した。予想された死罪を覆し弘前藩へ配流(はいる)に▼義成も咎とがめなしで代わりに双方の家臣が死罪。藩で外交を担当した臨済僧規伯(きはく)玄方(げんぼう)は盛岡藩に流された。玄方はその流罪先で南部鉄器などの創出に関わり、調興も弘前で学問や文化の指導者として地域に貢献した▼下克上の終焉(しゅうえん)を告げる“名裁定”に諸大名は安堵したが、結局は両成敗の忖度とトカゲの尻尾切り。菅義偉首相の長男による接待疑惑も数人の官僚を切って“迷宮入り”の気配だ。柳川一件に象徴される古き日本の“お家芸”である。