【古賀稔彦氏死去】柔道史に残るバルセロナ

 1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級決勝で、ハイトシュ(左)の投げをこらえる古賀稔彦さん(共同)
 1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級決勝で、ハイトシュ(左)の投げをこらえる古賀稔彦さん(共同)
古賀稔彦さんは芸術的な一本背負い投げで多くの柔道家に憧れられた。五輪は初出場の1988年ソウル大会で重圧に負けて3回戦敗退。「初めて味わった」挫折感が成功への礎となる。 スターの座を確立したのが、世界選手権を2度制して臨んだ92年バルセロナ.....
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 古賀稔彦さんは芸術的な一本背負い投げで多くの柔道家に憧れられた。五輪は初出場の1988年ソウル大会で重圧に負けて3回戦敗退。「初めて味わった」挫折感が成功への礎となる。[br][br] スターの座を確立したのが、世界選手権を2度制して臨んだ92年バルセロナ五輪の激闘だ。現地入り後の練習で左膝に重傷を負う。歩行もままならない状態だったが、痛み止めの注射を打って畳へ。決勝は旗判定で金メダル。勝った瞬間に両拳を握り、雄たけびを上げる姿は柔道史に残る名シーンだ。実は極限の緊張感から胃潰瘍の症状もあったという。[br][br] 「柔よく剛を制す」を体現したのが90年の全日本選手権。体重無差別の大会で70キロ台前半ながら重量級を次々に破って決勝進出。当時最重量級で世界王者の小川直也おがわなおやに敗れたが、超満員の日本武道館を熱狂させた。[br][br] 78キロ級に上げて挑んだ3度目の96年アトランタ五輪も決勝まで勝ち上がる。優位に試合を進めたものの、受け身に回り猛反撃にあって旗判定で敗戦。表彰台ではうつむき、悔し涙を流した。[br][br] 約2年間の休養を挟んで2000年シドニー五輪を目指したものの、膝や足首の故障に苦しんだ。代表最終選考会となった同年4月の全日本選抜体重別選手権で1回戦敗退。4度目の五輪への夢がついえると、32歳で畳に別れを告げた。 1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級決勝で、ハイトシュ(左)の投げをこらえる古賀稔彦さん(共同)