天鐘(3月20日)

八戸から田代、大野を経由して久慈に至る最短だが山間ルートの「久慈街道」。明治の馬車時代は県境の山を越えて大野で1泊、久慈までは難行苦行で丸2日がかりの“旅”だった▼1920(大正9)年、この街道にバスが走った。バスは朝9時に出発、「乗客」を.....
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 八戸から田代、大野を経由して久慈に至る最短だが山間ルートの「久慈街道」。明治の馬車時代は県境の山を越えて大野で1泊、久慈までは難行苦行で丸2日がかりの“旅”だった▼1920(大正9)年、この街道にバスが走った。バスは朝9時に出発、「乗客」を知らせる赤い旗が立つ宿を回り一路田代へ。田代では冷却器に冷水を注入、蕎麦(そば)で腹ごしらえして最難関の県境に向かった▼深く抉(えぐ)られた穴ぼこが続く悪路で、乗客がロープで引っ張り、それがダメなら農耕馬が出動。農家はその駄賃で懐を暖めた。大野で給油して休憩を取り、ダラダラと坂を下って久慈に到着するのは夕暮れ時だった▼一帯は藩政期から有名な産鉄地で、大正期には久慈に砂鉄を使う製鉄所が立地。その事業化を見越したバス運行で、徒歩や馬車時代の「大野泊」が不要となり、八戸と久慈が直結された(『八戸自動車史』)▼それが国道45号線の整備で1時間余に短縮。さらに今日、三陸沿岸道路・八戸―久慈が開通、45号線より25分も短縮され、40分で結ばれる。1世紀前は難行の旅だったが、はや通勤圏。震災復興の10年は凄(すご)かった▼新年度内には八戸―仙台間359キロが全通。人流・物流の新たな骨格になる。沿線3県1万6500人に上る尊い犠牲者の“墓標”であり、今後も襲来するだろう震災から住民を守る“生命線”である。心して使いたいものだ。