【刻む記憶~東日本大震災10年】廃業危機から親子で再建 八戸のイチゴ農家

イチゴの手入れに精を出す木村真輝さん(左)と母親の千賀子さん=20日、八戸市市川町下揚
イチゴの手入れに精を出す木村真輝さん(左)と母親の千賀子さん=20日、八戸市市川町下揚
青森県内有数のイチゴ産地である八戸市市川町。農業木村真輝さん(30)と母親の千賀子さん(59)がハウス7棟を経営する下揚地区は、10年前の東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた。一度は廃業を決意したものの、親子で力を合わせて営農を再開.....
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青森県内有数のイチゴ産地である八戸市市川町。農業木村真輝さん(30)と母親の千賀子さん(59)がハウス7棟を経営する下揚地区は、10年前の東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた。一度は廃業を決意したものの、親子で力を合わせて営農を再開。「命があって働けるだけ幸せ」と感謝しながら、早世した父親の博さん=享年(42)=の残した農地を守っている。[br][br] 2011年3月11日、強烈な揺れを感じ、木村さん一家は車で高台へ避難した。自宅は無事で、その日のうちに帰宅できたが、翌朝、畑を見に行った千賀子さんは言葉を失った。11棟のハウスは無残につぶれ、収穫のピークを迎えていた「麗紅」の株は泥まみれ。トラクターも水没していた。「これはもう、続けられないな」。再建はまったくイメージできなかった。[br][br] 全壊したハウスは、00年ごろに博さんが建てた。仕事熱心だった博さんが03年に心筋梗塞で急死した後、必死で栽培に取り組み、息子2人を育て上げた千賀子さん。苦労を味わい、「息子たちには農家を継がず、社会に出て働いてほしい」と考えていた。[br][br] 当時、20歳だった次男の真輝さんは、東京の建設会社を退職して帰郷し、農作業を手伝いながら就職先を探していた。就農するつもりはなかったが、震災後、周りの農家が必死で再建を目指す様子を見聞きし、落ち込む千賀子さんを目の当たりにする中、「農業で食べていくしかない」と思うようになった。[br][br] ボランティアの米兵らの助けを借りてがれきを撤去するとまず、ハウス2棟を建て、基礎から農業を学びながら、ホウレンソウやカブの栽培を始めた。1年ほどたつと土中の塩分濃度も低下し、まずまずの収量を上げられるようになったが、収益は思うように上がらなかった。[br][br] 13年からはイチゴ栽培に戻し、ハウスも徐々に増設した。就農したての頃は「仕方なく」という意識が強かった真輝さんも、「経験を重ね、最近はやりがいや面白さを感じている」。熱心に栽培に励んでいた亡き父の気持ちが、ようやく理解できるようになった。[br][br] 被災から10年を迎え、2人は改めて、再建をサポートしてくれた人たちへの感謝を実感している。千賀子さんは、「お父さんは『もっと頑張れ』って言ってるんじゃないかな」とほほ笑み、頼れる存在に成長した次男に目を細めた。イチゴの手入れに精を出す木村真輝さん(左)と母親の千賀子さん=20日、八戸市市川町下揚