【刻む記憶 鉄路をつなげ】(2)乗客の救済

東日本大震災直後のJR東日本盛岡支社は混乱状態だった。物が散乱し、電気が消えたオフィスで営業部長の森崎鉄郎さん(44)は各地の社員に電話をかけ続けていた。安否確認を急いだが応答はない。唯一つながった、三陸沿岸の釜石駅からは「高台へ避難する」.....
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 東日本大震災直後のJR東日本盛岡支社は混乱状態だった。物が散乱し、電気が消えたオフィスで営業部長の森崎鉄郎さん(44)は各地の社員に電話をかけ続けていた。安否確認を急いだが応答はない。唯一つながった、三陸沿岸の釜石駅からは「高台へ避難する」と告げられた。[br][br] 詳しい状況が分からない中、非常用電源で復旧したテレビの映像が不安に拍車を掛けた。釜石駅の北にある宮古港が黒い波にのみ込まれていた。「大変なことになった」[br][br] 午後4時すぎ、同支社内に地震対策本部が立ち上がった。森崎さんは動けなくなった東北新幹線の乗客救済を任された。緊急停止していたのは、八戸駅到着間近の上下2本と、新花巻―盛岡間の上下2本。うち八戸駅付近の2本は山中で、上りのはやて30号は「六戸トンネル」の中だった。[br][br] 森崎さんは弁当やありったけの電灯、携帯トイレ、毛布、カイロを現地に届けるよう指示した。[br][br]  ◇  ◇  ◇[br][br] 連絡を受けた八戸駅では係員が救援物資をかき集めた。さらに手分けして薬局からおむつや粉ミルクを調達。合流した設備担当者と共に2台のトラックに詰め込み、二手に分かれた。[br][br] 六戸トンネルに到着したのは午後8時すぎだった。辺りは真っ暗で雪が舞っていた。非常灯が照らす車内は暗い。携帯電話の電波は通じず、ほとんど情報が得られないまま、既に5時間余り取り残されていた乗客のいら立ちが伝わった。「何が起こったんだ!」。一部からは怒号も飛んだ。[br][br] 係員は一人一人に救援物資を手渡し、三陸沿岸に大津波が押し寄せたと知り得る情報を伝えた。「そんなにひどいのか…」。乗客は一様に表情をこわばらせた。「私たちは助かったんだ」。小さな声が漏れた。[br][br]  ◇  ◇  ◇[br][br] 夜間の移動は危険を伴う。真冬ではなおさらだ。同支社の判断で、11日の避難を断念し、係員は乗客と共に車内で一夜を過ごした。[br][br] 同支社では救済用のバスの手配が夜を徹して行われた。ようやく連絡が取れたのは関連会社のJRバスや八戸市の三八五バスなど。いずれも普段から付き合いが深く、「できる限り協力する」と快諾してくれた。[br][br] 12日朝、15台のバスが八戸駅周辺の乗客救済へ向かった。午前11時すぎまでに乗客約800人が青森県立八戸西高へ避難。同時に首都圏の乗客が帰る手はずも整えた。上越新幹線を利用するルートを確保し、13日には経由地の山形県の羽越線酒田駅へ向かうバスを八戸駅の係員総出で見送った。現地スタッフの緊迫の3日間が終わった。[br][br] そのわずか2日後。八戸駅の朝礼で、八戸地区駅長の西野重俊さん(55)は、人目をはばからず涙を流していた。前日に震災後初の巡回で目にした、管内の変わり果てた光景が頭をよぎり、感情を抑えられなかった。被害は想像を絶した。「八戸線の復旧は最低1年は無理だろう」。長い闘いの始まりだった。[br](年齢、肩書は当時)