天鐘(10月27日)

「40、50は洟垂(はなたれ)小僧。60、70は働き盛り」とは91歳で逝った明治期きっての財界人渋沢栄一。だが、107歳の天寿を全うした彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)は「60、70は洟垂れ小僧。男盛りは100から」と言い放った▼こんな.....
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 「40、50は洟垂(はなたれ)小僧。60、70は働き盛り」とは91歳で逝った明治期きっての財界人渋沢栄一。だが、107歳の天寿を全うした彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)は「60、70は洟垂れ小僧。男盛りは100から」と言い放った▼こんな豪傑の前で「60の手習い」など口にできない。でも東京五輪が開かれた昭和39年の今日、佐井村で94年の生涯を閉じた医師、三上剛太郎なら笑い飛ばせたかも▼江戸中期から村で医院を開業してきた三上家の8代目。1869(明治2)年に生まれ、新聞記者や軍医を務めた後、村に戻り小型船を駆って、地域医療を支えた。驚くのは「80歳で始めた仏語への挑戦」である▼90歳の時、仏国の小説家ビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を原語で読破。寸暇を惜しんであらゆる分野の書物を読み漁(あさ)った。目は衰えても拡大鏡を手に食い入るように読書する晩年の写真が残っている▼上京して三田英学校で学んだ際に出会った『レ・ミゼラブル』を生涯にわたり愛読、抜き書きするほどの入れ込みようだった。「死ぬまで勉強」が口癖で、辞書を片手に丁寧に読み進めた(『三上剛太郎物語』)▼剛太郎と言えば日露戦争の野戦病院で掲げた「手縫いの赤十字旗」で有名だが、晩年に仏語に挑み、不断の努力でものにしてしまう気骨はゲーテや北斎に勝るとも劣らない。“80、90の洟垂れ小僧”が90余にして成し遂げた手習いであった。