守護大名級の居館存在か 南部町・聖寿寺館跡に巨大区画

昨年度の発掘調査時の聖寿寺館跡。赤い線で囲まれた部分が新たに発見された100メートル四方の区画=2019年10月、南部町(町教委提供画像を一部加工)
昨年度の発掘調査時の聖寿寺館跡。赤い線で囲まれた部分が新たに発見された100メートル四方の区画=2019年10月、南部町(町教委提供画像を一部加工)
戦国時代に北奥羽地方で最大の勢力を誇った三戸南部氏が拠点とした南部町小向の国史跡「聖寿寺館(しょうじゅじたて)跡」について、町教委は23日、北東の一角に堀や溝に囲まれた100メートル四方の区画が見つかったと発表した。これまで倉庫や工房があっ.....
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 戦国時代に北奥羽地方で最大の勢力を誇った三戸南部氏が拠点とした南部町小向の国史跡「聖寿寺館(しょうじゅじたて)跡」について、町教委は23日、北東の一角に堀や溝に囲まれた100メートル四方の区画が見つかったと発表した。これまで倉庫や工房があったとみられていたが、区画の広さからみて居館があった可能性が高い。構造や機能など同館の全容把握に向けた新たな材料となるため、「これまでの想定を根底から覆す発見」としている。[br] 同跡は三戸南部氏が15世紀前半から16世紀中頃にかけて拠点とした場所で、1539年に焼失したとされる。1993年に町の発掘調査が始まり、これまでに東北地方で最大規模の堀立柱建物跡や貴重な遺物が発見されている。[br] 昨年度の調査で、同跡北側の中央から南へ延びる幅約2メートル、深さ約30~110センチの溝を発見。本年度、延びる先を調べた結果、溝が100メートルほどの場所で東側に曲がり、同じく100メートルほど延びていることが分かった。区画は北と東が堀で、西と南が溝で区切られる構造となり、内部の面積は8892平方メートルに上る。溝があったのは、15世紀から16世紀初め頃とみられる。[br] 町教委によると、今回見つかった区画の広さは鎌倉時代から室町時代にかけ、地頭や守護大名クラスが築いた武家居館の例がほとんどという。現時点で用途などは不明だが、居館であった場合、町教委社会教育課史跡対策室の布施和洋総括主幹は「三戸南部氏の次期当主、または隠居した当主が住んでいた可能性がある」と指摘。その一方、城域を拡大する以前の古い段階の三戸南部氏の居館だった―との見方もあることから、今後慎重に分析を進めていく考えだ。[br] 発掘現場で同日開かれた記者会見で、史跡聖寿寺館跡調査整備委員会の三浦圭介委員長は「(今回見つかった)区画にあったとされる倉庫や工房群は、ほとんどが城館廃棄後の施設だということが近年分かってきた」とした上で、「城館の中に重要な施設が二重に存在したとすれば、聖寿寺館のこれまでの考え方が変わってくる」と今回の発見の意義を強調した。[br] 町教委は来年度以降、数年かけて区画内部の調査を進める方針。昨年度の発掘調査時の聖寿寺館跡。赤い線で囲まれた部分が新たに発見された100メートル四方の区画=2019年10月、南部町(町教委提供画像を一部加工)