【連載・虚しき報せ】(2)平出講談 タブー破るラジオ放送

平出英夫の青年期(左)と駐在武官時代。スマートな外見と装いには定評があった(平出修一さん提供)
平出英夫の青年期(左)と駐在武官時代。スマートな外見と装いには定評があった(平出修一さん提供)
平出(ひらいで)英夫はイタリア駐在から帰国した1940(昭和15)年7月、大本営海軍報道部課長に着任した。その前後から平出は、雑誌媒体への寄稿を始める。ファシズムの本場・イタリアの現状を見聞した専門家として、その有用性を吹聴し始めたのだ。 .....
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 平出(ひらいで)英夫はイタリア駐在から帰国した1940(昭和15)年7月、大本営海軍報道部課長に着任した。その前後から平出は、雑誌媒体への寄稿を始める。ファシズムの本場・イタリアの現状を見聞した専門家として、その有用性を吹聴し始めたのだ。[br] さらに翌41年5月には、海軍記念日の特別番組として、ラジオ演説「海戦の精神」を行い、反響を呼んだ。海軍軍人として初めて公然と、英米との戦争開始をほのめかしたからである。[br] 〈今日の世界情勢から日本が参戦することなしと断言することは誰にもできない〉(「海戦の精神」)[br] 杉本健著「海軍の昭和史」(文芸春秋、1982年)によると、この衝撃には次のような背景がある。海軍には長年、自身の方針や見解、戦力を軽々しく表明しない「サイレント・ネービー(沈黙の海軍)」の伝統があり、また各国の海軍力に精通していることから、2大強国の英米との戦争には原則として慎重だった。平出演説は、この二つのタブーを一気に破ったことになる。[br] 無論、これは平出の独断専行ではない。海軍内部にも対英米強硬派が台頭し、海軍中央の一部要職を占めていた。平出はこの一派の意向を、ラジオを通じて大々的に表明してみせた。[br] さらにこの演説要旨は、翌日の一部各紙に掲載された。当時の新興メディアであるラジオに対抗心を持っていた新聞が、ラジオの後追いをしたことも異例の措置だった。これは平出らが、事前に演説原稿を各紙に送っていたことで可能になった。[br] このラジオ演説が聴衆の耳目を引いたもう一つの要因が、平出自身の類いまれな演説能力である。[br] 平出はアナウンサーさながらに長時間、原稿をよどみなく読み進めるだけでなく、抑揚を付けて熱弁する力量にも長たけていた。その能弁さは「平出講談」と称されるほどだった。活字メディアも平出に着目し、インタビューや対談、寄稿の機会が急増した。[br] 戦略・戦闘を本領とする陸海軍において、報道部はもともと閑職の部署であり、特に海軍では軽視されていた。だが平出はメディア露出を増やすことで、対外的には海軍を代表する存在として認知されてゆく。近現代史研究者の辻田真佐憲(まさのり)さんは「軍人本来の力量に関係なく、メディアに祭り上げられた珍しい例」と形容する。[br] 41年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾の米海軍を奇襲し、アジア太平洋戦争(太平洋戦争)が勃発(ぼっぱつ)。平出も同日、奇襲成功を伝える大本営発表に立ち会い、続報を担当した。以降、国民の戦意を高めるため、平出の存在感と業務量はさらに増えてゆく。 平出英夫の青年期(左)と駐在武官時代。スマートな外見と装いには定評があった(平出修一さん提供)