戦時の教会、隠れた史実/日本基督教団八戸小中野教会

戦時中の八戸小中野教会について調べる小林よう子牧師。戦争末期の幼稚園月報(手前)には「必勝慰問」などの文言が見える=6日
戦時中の八戸小中野教会について調べる小林よう子牧師。戦争末期の幼稚園月報(手前)には「必勝慰問」などの文言が見える=6日
日本基督(きりすと)教団八戸小中野教会の小林よう子牧師が、90年にわたる同教会の歴史を調べ続けている。特に着目しているのは、アジア・太平洋戦争(太平洋戦争)期における教会の動向だ。残された史料からは、信仰や日常生活の中に軍国主義が色濃く反映.....
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 日本基督(きりすと)教団八戸小中野教会の小林よう子牧師が、90年にわたる同教会の歴史を調べ続けている。特に着目しているのは、アジア・太平洋戦争(太平洋戦争)期における教会の動向だ。残された史料からは、信仰や日常生活の中に軍国主義が色濃く反映していたことが分かる。「事実を正面から受け止め、今後の糧としなければ」。敗戦から75年、公に語られることのなかった軌跡に光を当てた。[br] 同教会は1930(昭和5)年、プロテスタントの教派である長老派の伝道所として出発した。戦前は信徒こそ数人程度だったが、38年から幼稚園(現・八戸小中野幼稚園)の運営を手掛け、地元住民とのつながりを深めた。[br] 39年、三本木町(現・十和田市)で活動していた30代の男性牧師が2代目牧師(教会の意向で匿名)として赴任する。「彼」は戦時下にあって教会を守り、94年に85歳で死去するまで、八戸に根を下ろした。[br] 教会には戦時中、青森県に提出していた幼稚園の月報や、礼拝のプログラムを記した案内状がいくつか残っている。月報の備考には、地元の神社参拝や天長節(てんちょうせつ)(天皇誕生日)、地久節(ちきゅうせつ)(皇后誕生日)を祝ったことなどがわざわざ明記され、礼拝の式順には宮城遙拝(きゅうじょうようはい)(皇居の方角への敬礼)が組み込まれている。本来の教義とは無関係なものだ。[br] 日本のプロテスタント系諸教会は41年、日本基督教団を結成して合同し、同年に始まった戦争への協力を誓った。だが、唯一神を信じるキリスト教会に対し、「現人神(あらひとがみ)」とされた天皇の崇拝を求める政府の警戒はその後も続いた。実際、44年には八戸柏崎教会の牧師が憲兵に連行され、牧師職を辞している。[br] 「当時の教会員によると、戦時中は礼拝に憲兵が同席していた―とも聞いている」と小林牧師。「教会と園児を守るため、当局や地元住民に排除されないよう必死だったのではないか。『彼』は愚直で、まじめな人柄で知られていたから」[br] 小林牧師が胸を突かれたのは敗戦直後の45年、「彼」がクリスマスを祝う集いを知らせる招待状に記した次の一文だ。[br] 〈一人ひとりが清く正しく強い子供となってお家のためにお國(くに)のためにお役に立ちたいと思っています〉[br] 信仰の結果としての奉仕精神と、初めから「家」や「お国」のためを目的に掲げることは、本質が大きく異なる。「彼」がそれを知らぬはずがない。小林牧師は「戦争が終わってなお、戦前に忠君愛国教育を受け、戦時中に戦争協力を余儀なくされた“傷”が、まだ癒えていなかったのだろう」と思いやる。[br] 「彼」は戦後、自身の戦時中における振る舞いについて言及することがほとんどなかったという。小林牧師は「ただ、都合の悪い史料を廃棄せずに残したのは、責任について覚悟があったに違いない」と指摘。「『彼』のように苦しむ人のない社会を実現するため、一人一人が考え続けてほしい」と呼び掛ける。戦時中の八戸小中野教会について調べる小林よう子牧師。戦争末期の幼稚園月報(手前)には「必勝慰問」などの文言が見える=6日