【虚しき報せ】破格の出世頭 イタリア駐在が転機に

実のきょうだいと写真に収まる、海軍兵学校時代の平出英夫(左)=1914年ごろ(平出修一さん提供)
実のきょうだいと写真に収まる、海軍兵学校時代の平出英夫(左)=1914年ごろ(平出修一さん提供)
平出英夫は1896(明治29)年、三沢村(現・三沢市)に生まれた。平出家は元々会津(斗南)藩士の出で、実父の利根次郎は教職を経て村役場の助役を長年務めた、地元の名士だった。ただ、平出には別に養父がいた。利根次郎の兄・栄太郎である。 栄太郎は.....
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 平出英夫は1896(明治29)年、三沢村(現・三沢市)に生まれた。平出家は元々会津(斗南)藩士の出で、実父の利根次郎は教職を経て村役場の助役を長年務めた、地元の名士だった。ただ、平出には別に養父がいた。利根次郎の兄・栄太郎である。[br] 栄太郎は日露戦争で活躍した戦艦「三笠」に勤務したこともある海軍軍人で、軍港・佐世保港のある長崎県での暮らしが長かった。栄太郎が実子に恵まれなかったことから、平出は4歳頃に養子となり、程なく現在の同県大村市近辺へ移り住んだ。[br] 幼時の平出は大村湾から見える戦艦訓練に憧れ、学校では日本海海戦の様子などを耳にして育ったという。平出自身、後に〈精神的な影響と、目から受けた影響と、その二つが私を海軍に志願させた〉(平出著「海軍の生活」生活社、1943年)と回想している。[br] 長崎の旧制中学を卒業後、平出は海軍兵学校を受験し、45期生として入学した。同期には皇族の伏見宮博義王、後に戦艦「大和」の最後の艦長となった有賀幸作らがいる。卒業後は海軍大学校へ進んだ。[br] 親族が残した手記によると、平出は兵学校入学の前後に養子である旨を知り、最初の夏休みに初めて三沢へ帰省したという。当時の兵学校は国内有数のエリートコースであり、その制服姿は家族や地元住民に強い印象を与えた。実弟の貞夫も兄に憧れ、技術者を養成する海軍機関学校を経て中佐まで進んだ。小さな寒村出身者の中でも、海軍将校となった平出兄弟は破格の出世頭だった。[br] 半面、平出は必ずしも軍人向きではなかったようだ。平出自身の証言によると、海軍大学校在学中のうち2年間は、外国語学校でフランス語を学んでおり、戦術や作戦起案などの実戦知識はあまり学んでいないという。卒業後も仏伊の駐在武官といった、海とは縁の薄い道を歩んだ。[br] 近現代史研究者の辻田真佐憲さんは「日本海軍は指揮戦闘を担う現場組なら、海大卒でなくても出世できる現場重視の組織」であり、「平出は完全に傍流。アジア太平洋戦争(太平洋戦争)がなければ、目立つことなく軍歴を終えたはず」と指摘する。[br] 二・二六事件直後の36(昭和11)年から約4年赴任したイタリア駐在武官も、本来は傍流の役職だった。だが、当時の同国はムッソリーニ率いるファシスト党が全体主義的独裁制を敷き、この影響を受けたナチスドイツのヒトラーとも連携を深めていた。39年に勃発した第2次世界大戦でも、ドイツは快進撃を続けた。[br] この上げ潮を目の当たりにした平出は、軍国主義化が進む日本に帰国後、ファシズムの本場を知る有識者として、徐々に頭角を現すことになる。[br] もっとも、平出がどこまでファシズムを信奉していたかは定かでない。当時、朝日新聞記者だった杉本健は、平出の上司・米内光政(後に海軍大将、首相)の平出評を書きとめている。[br] 〈「気の毒だが、イタリアってものをよく呑(の)みこんでいない。白鳥(敏夫)なんかの話をハアハアといった調子で鵜(う)呑(の)みして、そのまま本省へ送ることがあるヨ…」〉(杉本著「海軍の昭和史」文藝春秋、1982年)[br] 白鳥は同時期に駐伊大使を務めた外交官。外務省内の対英米強硬派であり、日独伊三国同盟を推進したことでも知られる。平出はこうした強硬派の人脈に連なり、彼らの矢面に立つ形で、その意を酌んだスピーカーとしての役割を後に果たすことになる。実のきょうだいと写真に収まる、海軍兵学校時代の平出英夫(左)=1914年ごろ(平出修一さん提供)