会津との絆を次世代へ/斗南藩庁むつ移転150年 子孫らが記念事業

斗南會津会が土塀や井戸の復元を計画している斗南藩史跡地=5月中旬、むつ市田名部
斗南會津会が土塀や井戸の復元を計画している斗南藩史跡地=5月中旬、むつ市田名部
戊辰戦争で敗れた会津藩が斗南藩として再興し、田名部(現むつ市)に藩庁が置かれてから150年となる本年度、下北地域の藩士の子孫らで作る「斗南會津会」(山本源八会長)が、同市田名部の斗南藩史跡地整備などの記念事業を計画している。山本会長は「子ど.....
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 戊辰戦争で敗れた会津藩が斗南藩として再興し、田名部(現むつ市)に藩庁が置かれてから150年となる本年度、下北地域の藩士の子孫らで作る「斗南會津会」(山本源八会長)が、同市田名部の斗南藩史跡地整備などの記念事業を計画している。山本会長は「子どもたちや若い人が歴史を再認識する機会になれば」と思いを語る。 [br] 斗南藩は1869(明治2)年11月、領地を没収された会津藩が明治政府に再興を許されて立ち上げた。新たな領地は陸奥国3郡(現在の下北郡、上北郡の一部、三戸郡、岩手県二戸郡の一部)で、北海道4郡の支配も命じられた。[br] 70年4月、最初の藩庁が五戸代官所跡に置かれ、71年2月に同市田名部の円通寺に移されたが、同年7月の廃藩置県で斗南県に。同年9月には弘前県、八戸県、七戸県などとの合併や県庁移転を経て青森県となり、斗南藩の歴史は2年足らずで幕を閉じた。[br] 同会による史跡地整備では、藩政時代の土塀や井戸の復元を計画。史跡地は斗南藩が街づくりの拠点として整備した斗南ケ丘市街地があった場所で、井戸を囲むように高さ70センチの土塀を設置する考え。近くには当時の生活様式を紹介するモニュメントも設ける方針だ。[br] また、斗南藩が政府への設置運動を通じ、76年10月に完成した尻屋埼灯台(東通村)に関する冊子発行も目指している。東北地方初の洋式灯台で、れんが造りとして日本一の高さを誇っており、そのれんがが、同市大畑町の正津川近くで製造されたことなど、調査で新たに判明した成果をまとめるという。[br] このほか、6月に円通寺で実施する記念法要では、新島八重顕彰会(福島県会津若松市)から贈られた絵画「白虎隊殉難図」の複製の魂入れを行う。複製は原寸大の縦165センチ、横130センチ。戊辰戦争で自刃した少年隊士たちが描かれており、法要後は本堂に展示する。[br] 斗南藩には会津藩士や家族ら2800戸、1万7300人が移住したとされるが、中でも下北の土地は荒れ地でヤマセの影響を受けて作物が育たず、多くの餓死者や病死者を出すなど生活は極めて困難だった。廃藩置県後は政府のコメの援助打ち切りなどもあり、多くが斗南から会津や東京などに散っていった。[br] 残ったのは50戸ほどだったというが、藩士たちは藩校「日新館」で学ぶなど、元々あった学問の素養を生かし、県内各地の小学校で教員を務めるなどし、県の教育振興や優れた人材輩出に貢献した。[br] 山本会長は「ゆかりの地を巡って、斗南藩の歴史を感じてほしい。斗南と会津の関係を今後もつなげていきたい」とし、1世紀半にわたる「絆」を次世代へ引き継ごうと力を込める。斗南會津会が土塀や井戸の復元を計画している斗南藩史跡地=5月中旬、むつ市田名部