東京五輪延期で“幻の代表”選手気遣う「モスクワの二の舞になってほしくない」

現役時代の写真を見ながら、出場が絶たれたモスクワ五輪への思いなどを語る坂本典男さん=南部町
現役時代の写真を見ながら、出場が絶たれたモスクワ五輪への思いなどを語る坂本典男さん=南部町
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受け、1年程度の延期が決定した東京五輪・パラリンピック。選手は感染症という見えない“敵”に翻弄(ほんろう)されながら、今後は難しい調整を強いられることになる。東西冷戦下、日本がボイコットした1980年モ.....
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 新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受け、1年程度の延期が決定した東京五輪・パラリンピック。選手は感染症という見えない“敵”に翻弄(ほんろう)されながら、今後は難しい調整を強いられることになる。東西冷戦下、日本がボイコットした1980年モスクワ五輪に自転車競技で出場予定だった「幻の日本代表」・坂本典男さん(60)=南部町=も40年前、思わぬ敵に運命を変えられた1人。当時を振り返りつつ、「モスクワの“二の舞”にはなってほしくない」と現役アスリートを気に掛けている。[br] 坂本さんは旧福地村出身。三戸高から自転車競技を始めると、めきめきと頭角を現し、高校3年時に青森県で開催された第32回国体「あすなろ国体」で優勝した。将来は競輪選手を目指していたが、当時はアマチュア選手しか出場できなかった五輪を21歳という「絶好のタイミング」(坂本さん)で迎えられることから、五輪出場を見据えて大学進学を決めた。[br] 世界大会を転戦しながらさらに力を蓄え、80年春に行われた選考会で実力を発揮。晴れて短距離種目で代表入りした。「代表選考期間は、若者らしい勢いと自信があり、負け知らずだった。自分は今がピークだと思っていた」。ただ、その頃には国際情勢がすでに悪化しており、常に不安と隣り合わせだった。[br] 同年5月24日、日本のボイコットは報道で知った。「ここまで政治に左右されるとは。人生一度きりのチャンスになるはずだったので、つらい決定だった」 幸いにも、競輪選手という別の目標や、アマチュアとして臨む残りの世界大会があったため、それらに専念しながら徐々に気持ちを切り替えた。83年にプロデビューすると、2014年に54歳で引退するまで競輪界を盛り上げ続けた。[br] ただ、幻の五輪への思いが消えることはない。「もちろん出たかった。恩師や親、応援してくれる人へ、大舞台で頑張る姿を見せたかった」。40年たった今でも、悔しさはよみがえる。[br] 2020年。世界は感染症の猛威に苦しみ、「平和の祭典」開催は、一筋縄ではいかなくなった。代表が決まっていない競技では、代表選考方法の再考が必要となったものも多い。[br] 坂本さんは「選手にとって1年という期間は本当に大きい。待った方が調子が上がる選手もいるだろうが、一方で世代交代も進むし、再びピークを持っていくのも難しい。運が良い、悪いが出てしまうのは、スポーツ選手のさがなのかな」と、選手のやるせない心情をおもんぱかる。[br] そして、「日本代表を勝ち取っても、大会に出られない選手がいれば寂しい。モスクワの時の自分らのようにはならないよう祈るだけだ」と話し、一刻も早い感染症の終息を願った。現役時代の写真を見ながら、出場が絶たれたモスクワ五輪への思いなどを語る坂本典男さん=南部町