天鐘(2月18日)

1908(明治41)年1月25日、三戸郡是川村(現八戸市)出身で文学志望の市川文丸が突然、夏目漱石のもとを訪ね、故郷の「豊年祭り」に誘った。その祭りとは昨日、八戸市で始まった「えんぶり」だったらしい▼同市の石万代表取締役、石橋司さんの寄稿文.....
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 1908(明治41)年1月25日、三戸郡是川村(現八戸市)出身で文学志望の市川文丸が突然、夏目漱石のもとを訪ね、故郷の「豊年祭り」に誘った。その祭りとは昨日、八戸市で始まった「えんぶり」だったらしい▼同市の石万代表取締役、石橋司さんの寄稿文『夏目漱石をえんぶりに誘った青年』が小紙13日付の文化面に載った。漱石がお庭えんぶりにひょっこり訪れていたら―と結んでいたが、わくわくする逸話である▼だが、漱石は大の寒がりで「面白き事と存(ぞんじ)候(そうろう)。出来るなら御供致し度(たく)」と述べながら、やんわり断った。多士済々の文学青年が集う中、人嫌いの漱石が初対面の文丸になぜか優しく、丁寧な書簡さえ交わしている▼文丸は最初の訪問で持参した山鳥を捌(さば)き、文学仲間と鍋を突(つつ)いた。その後も小説の習作と特産の干し菊や畳鰯(たたみいわし)を携え、何度か訪れている。漱石はどうやら彼の文才より木訥(ぼくとつ)とした人柄が気に入っていたようだ▼旧制八中から早大に進み、作家を志したが断念。帰郷して「陸奥新聞」を発刊し、バス事業にも参画するなど実業で才を見せた。写真の文丸は漱石ばりの髭(ひげ)を蓄えている▼漱石は出会いを掌編『山鳥』に書いた。文丸は20円の借金もしたが「心配御無用」と帳消しに。漱石と八戸が意外な縁で繋がっていた。遺族が所蔵する文豪からの4通の書簡は、互いの朴直な優しさが響き合った証しかもしれない。