【刻む記憶~東日本大震災10年】押川さん(野田) 医療の灯消さない 

「この村の患者さんのために、あと最低でも5年は続けたい」と語る押川公裕さん=2日、野田村野田
「この村の患者さんのために、あと最低でも5年は続けたい」と語る押川公裕さん=2日、野田村野田
医療の灯は消せない―。野田村中心部にある「おしかわ内科クリニック」の押川公裕院長(71)は2011年3月11日、診療中に東日本大震災に遭った。津波で診療所を失い、白衣や聴診器、消毒液など医療器具や医薬品が満足にそろわない中、村唯一の医師とし.....
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 医療の灯は消せない―。野田村中心部にある「おしかわ内科クリニック」の押川公裕院長(71)は2011年3月11日、診療中に東日本大震災に遭った。津波で診療所を失い、白衣や聴診器、消毒液など医療器具や医薬品が満足にそろわない中、村唯一の医師として、避難所に寝泊まりしながら、臨時の救護所で患者らと向き合った。[br][br] 押川さんは鹿児島県さつま町出身。杏林大医学部卒業後、東京の病院などで勤務医として働いた。北奥羽地方と関わりを持ったのは30代後半になってからで、八戸市や久慈市の病院に勤めた。村に診療所を開いたのは05年。小田祐士村長から「10年の約束」と口説かれた。[br][br] 震災が発生したのは、開業して7年目を迎えた時期だった。強い揺れの後、すぐに診療所の送迎バスで患者を高台に避難させ、自家用車に飛び乗った。 患者やスタッフに人的被害がなかったのは幸いだった。海から押し寄せた津波は、村中心部を一瞬にしてがれきの山に変えた。[br][br]「まさかあれほどの大津波が来るとは思わなかった。あの時の記憶は絶対に消えない」。診療所は4千枚以上の患者のカルテもろとも流された。[br][br] つらい経験だった。それでも立ち止まる訳にはいかなかった。目の前には助けを求める患者がいた。[br][br] 押川さんは避難所の「えぼし荘」で寝泊まりしながら、野球場のバックネット裏の臨時救護所で診察を始めた。負傷者への対応ばかりでなく、かかりつけの患者にも目を配った。地域では高齢化が進み、高血圧や糖尿病の高齢者が数多くいたが、被災した小さな村では血圧計も注射器も手に入らなかった。「避難所暮らしはストレスがたまる。言葉をかけ、とにかく安心させなければ」とできることを続けた。[br][br] 「診療所で診察を再開したい」。押川さんの強い思いを岩手県や村、久慈医師会が応援した。診察器具一式が届けられ、震災から約3週間後の3月末に村総合センターに臨時診療所を開設。翌12年8月には村役場の隣に現在の診療所が新設され、住み込みで診療ができるようなった。[br][br] 約束の10年を迎えても、押川さんは村にとどまった。「縁もゆかりもなかったけど住めば都だね。人がいい、食べ物もおいしい」。19年には自宅が完成し、本格的にこの地に根を下ろした。[br][br] 震災から10年。当時診察した高齢の患者の中には亡くなった人もいる。当時小学生だった子どもたちの多くが村を出て行った。自身も70歳を越え、村での生活は16年目になった。[br][br] 「年は取ったけど、あと最低5年は続けたいね」と押川さん。「名医じゃなくていい。身近に寄り添う家庭医として全うできれば本望」。地域住民から頼られる小さな村の“先生”は、これからも村民の健康を見守り続ける。「この村の患者さんのために、あと最低でも5年は続けたい」と語る押川公裕さん=2日、野田村野田