【震災10年】フィギュア羽生 輝く星からもらった希望の光

 東日本大震災の復興支援を目的としたフィギュアスケートの慈善演技会に臨んだ東北高の羽生結弦(当時)=2011年4月、神戸ポートアイランドSC
 東日本大震災の復興支援を目的としたフィギュアスケートの慈善演技会に臨んだ東北高の羽生結弦(当時)=2011年4月、神戸ポートアイランドSC
慣れ親しんだ仙台市のリンクで激震に見舞われ「スケートをやっている場合じゃない」と思ったあの日の夜、天を見上げた。東日本大震災が発生した2011年3月11日。当時宮城・東北高1年だったフィギュアスケート男子の羽生結弦(26)=ANA=は、暗闇.....
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 慣れ親しんだ仙台市のリンクで激震に見舞われ「スケートをやっている場合じゃない」と思ったあの日の夜、天を見上げた。東日本大震災が発生した2011年3月11日。当時宮城・東北高1年だったフィギュアスケート男子の羽生結弦(26)=ANA=は、暗闇に輝く星から希望の光をもらった。[br][br] 22年北京冬季五輪で3連覇の期待がかかる天才スケーターの人生は「3・11」で変わった。仙台市の自宅は全壊判定となり、家族4人で4日間の避難所生活も経験した。被災したリンクも一時閉鎖に追い込まれ、宮城・七北田小時代に指導を受けた都築章一郎氏がいる横浜市のスケート場に仮の拠点を求めた。[br][br] 「期待に応えられるように頑張らなきゃ」と前向きになれたきっかけは、4月に神戸市で催された復興支援の慈善演技会だった。阪神大震災から復興した地で「仙台これから頑張るよ」と思いを込めて演技し、喝采を浴びて決心した。[br][br] 細身でか弱さもあった少年は、全国を転々として約60回もアイスショーに出演。貴重な機会を生かし「常にピークを保とうとした」と言う。都築氏が「周囲の支えを感じたのだろう。自分を追い詰めた練習をしていた」とうなるような集中力で鍛錬を積み、滑れる喜びもあって急成長した。[br][br] 12年3月に初出場した世界選手権では3位と健闘し、被災地に勇気を届けた。仙台市で以前指導した田中総司氏が「(震災後は)ジャンプの(踏み切りから着氷の)距離が1・5倍ぐらいに伸びていた。何がこの子を変えたんだと思うぐらい」と驚く変貌ぶりだった。[br][br] 持病のぜんそくや故障に耐えて進化を続け、五輪の頂点に2度立ったが、震災の記憶が薄れることはない。19年12月のグランプリ・ファイナル(トリノ)で、かつて横浜市のスケート場で一緒になった佐藤操コーチと再会し「今更ですが、震災の時はお世話になりました」と気持ちを伝えた。「礼儀正しくて立派。よくここまで努力したなと思った」と佐藤コーチ。苦しい時期にかけがえのない日々を送れたことを忘れていない。[br][br] 新型コロナウイルスの緊急事態宣言下の昨年4月、日本オリンピック委員会(JOC)の公式ツイッターに投稿した動画では「3・11の時の夜空のように、真っ暗だからこそ見える光があると信じています」と願い、コロナ禍と震災を重ね合わせた。[br][br] 現在の拠点カナダに戻れず、国内で孤独な調整を強いられたが、同年12月の全日本選手権で5年ぶりに王座奪還。「あらためてスケートができることが当たり前じゃないと痛感した」。24日開幕の世界選手権(ストックホルム)も控え、スター選手は感謝を胸に氷上に立ち続ける。 東日本大震災の復興支援を目的としたフィギュアスケートの慈善演技会に臨んだ東北高の羽生結弦(当時)=2011年4月、神戸ポートアイランドSC