【斗南藩ゆかりの地探訪】(10)六十九種草堂(三沢市)

廣澤安任の住居兼書斎「六十九種草堂」。復元された建物で、当時とは正面入り口の位置などが異なる=2020年10月
廣澤安任の住居兼書斎「六十九種草堂」。復元された建物で、当時とは正面入り口の位置などが異なる=2020年10月
三沢市北部の同市谷地頭に位置する道の駅みさわ斗南藩記念観光村。この地で、旧会津藩士で元斗南藩少参事の廣澤安任=ひろさわやすとう=(1830~91年)が、日本初とされる民間洋式牧場を開設した。一角には、復元された廣澤の住居兼書斎「六十九種草堂.....
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 三沢市北部の同市谷地頭に位置する道の駅みさわ斗南藩記念観光村。この地で、旧会津藩士で元斗南藩少参事の廣澤安任=ひろさわやすとう=(1830~91年)が、日本初とされる民間洋式牧場を開設した。一角には、復元された廣澤の住居兼書斎「六十九種草堂(ろくじゅうきゅうしゅそうどう)」が建つ。[br][br] 廣澤が1881(明治14)年、東京で開かれた内国勧業博覧会に牛や馬が食べる野草69種類の研究成果を出品したことを記念し、その名が付けられた。[br][br] 72(同5)年に牧場を開き、74(同7)年には谷地頭の国有地2390ヘクタールの払い下げを受けた広澤は、牧場内に自生する野草について、牛や馬の好みや、乾燥飼料として使えるかどうかなどを1種類ずつ調べて牧草に転用した。[br][br] 故郷から遠く離れた厳しいこの地に残り、牧場を経営しようと決心した一因には、日本人の体格を向上させるためには肉食への変化が必要となる―という国の将来を見据えた思いがあったようだ[br][br]。 市先人記念館の吉田幸弘学芸員(32)は「野(や)にあって国家に尽くす」とした廣澤の信念に触れ、「自分の利益よりは国のためになることを、との志を持っていたのだろう」と推測する。[br][br] 会津藩時代には、京都で公用人として諸藩の藩士らと接触し、情報収集に努めた廣澤。さまざまな人物との交際が、後の牧場経営の成功にも役立ったようだ。[br][br] 復元された建物内では、牧場経営時の生活の様子ばかりでなく、内務卿を務めていた大久保利通が廣澤に任官を打診したとされる場面、新聞記者だった原敬が訪ねてきた場面を、想像を交えて人形で再現。勝海舟が揮毫(きごう)した「六十九種草堂」の書が掲げられていた客間も紹介している。[br][br] 広澤の牧場は閉牧したが、周辺には酪農が産業として根付いた。[br][br] 同市高野沢2丁目の酪農業「サウザンドリーフ」の千葉準一代表(65)は「日本で初めて民間洋式牧場を開いた大きな存在で、誇りに思う。前提として廣澤さんが来なければ、私も今の場所で酪農をできていないだろう」と先人の偉業に敬意を表している。[br][br]【学識豊富で一目置かれる】 一般に広く知られる存在ではない廣澤安任だが、大久保利通や勝海舟のような歴史上有名な人物との交流が多く伝えられる。[br] 廣澤は会津藩の下級武士の次男として生まれ、藩校日新館、江戸の昌平坂学問所で学んだ。京都時代は幕府の用人のほか、薩摩や長州の藩士らとも接触していた。学識豊富で先見性を持っていたため、さまざまな立場の人から一目置かれる人物だったと言えよう。[br][br] 慶應義塾創設者の福澤諭吉は、廣澤が開牧してからの記録をまとめた「開牧五年紀事」で序文を書き、実行することを重んじる廣澤をたたえている。廣澤安任の住居兼書斎「六十九種草堂」。復元された建物で、当時とは正面入り口の位置などが異なる=2020年10月