【刻む記憶~東日本大震災10年】野田村保育所 「早足散歩」や訓練 努力実を結び“奇跡”

園児と遊ぶ中村幸枝さん(中央)。訓練など努力の積み重ねで全員の命が助かったと実感している=5日、野田村
園児と遊ぶ中村幸枝さん(中央)。訓練など努力の積み重ねで全員の命が助かったと実感している=5日、野田村
東日本大震災で建物が流されながら、園児約90人と職員が全員無事だった野田村保育所。大勢の乳幼児を連れての脱出劇は、地震発生が避難訓練の当日だった幸運も重なり「野田村の奇跡」と言われた。ただ、その裏には毎月の訓練や避難を意識した「早足散歩」な.....
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 東日本大震災で建物が流されながら、園児約90人と職員が全員無事だった野田村保育所。大勢の乳幼児を連れての脱出劇は、地震発生が避難訓練の当日だった幸運も重なり「野田村の奇跡」と言われた。ただ、その裏には毎月の訓練や避難を意識した「早足散歩」など徹底した津波への備えがあった。当時を体験した現所長の中村幸枝さん(58)は「先輩方がつくってくれた計画、積み重ねてきた経験が生きた」と振り返る。[br][br] その日は午後3時過ぎから訓練で、中村さんが受け持つ2歳児はまだ昼寝中だった。そろそろ起こそうと考えていたときに、突然の大きな揺れ。すぐにいつもの避難ルートが頭に浮かんだ。本人の物でなくてもとにかく園児に上着を着せ、自分は貴重品も持たずに園を飛び出した。[br][br] 乳幼児を連れて逃げるのは時間がかかる。園では、避難計画を周到に練っていた。段階ごとに三つの避難場所を決め、まずは発生15分以内に500メートル離れた高台まで逃げる。毎月の訓練に加え、普段の散歩でも園児と共にかけ足で避難場所に向かっていた。[br][br] 中村さんが園を出たのは最後の方だった。「この子たちを絶対に助ける」。園児の手を引き、何人かは避難車と呼ぶ大型の乳母車に乗せて走った。泣いたり騒いだりする子どもは一人もいなかった。[br][br] 高台に到着したのもつかの間、防潮林を覆う黒い津波が見えた。「ここも危ないかもしれない」。さらに500メートル離れた坂の上を目指した。緊急時だけ使う最短距離の畑を突っ切る。避難車のタイヤが畑にめり込み焦ったが、必死で坂を登り切った。[br][br] 避難場所と言っても屋外で寒く、そこから三つ目の避難場所と決めていた1キロ先の村立野田中へ。翌日は避難所を回り、途中で父兄に引き渡した園児、職員も全員無事だったと分かり、心の底から安堵(あんど)した。[br][br] 保育所があったはずの場所には、門柱と蛇口しか残ってなかった。一歩間違えれば、犠牲者が出てもおかしくなかったのは確かだ。ただ、「奇跡」と言われると、偶然の産物のようで少しだけ違和感もある。[br][br] 職員だけの訓練では、園児の列と同じ長さのテープを持ち、避難車には重しを乗せて運んだ。「当時はそこまでする必要があるかと思ったが、みんな一生懸命だった。それが全員の命を救った」。奇跡は、努力が実を結んだ当然の結果との自負がある。[br][br] 震災後、保育所は高台に建て替えられ、津波の心配はなくなった。それでも、地震や火事に備えた毎月の訓練は欠かさない。「まずは逃げる。そのためには頭で考えず、体が覚えるまで訓練を繰り返さないと」。園児と遊ぶ中村幸枝さん(中央)。訓練など努力の積み重ねで全員の命が助かったと実感している=5日、野田村