樺太引き揚げ船の悲劇「風化させまい」 生還の男性が冊子/むつ

冊子「樺太緊急疎開引き揚げ船第二新興丸」を発行した畑中浩美さん=19日、むつ市
冊子「樺太緊急疎開引き揚げ船第二新興丸」を発行した畑中浩美さん=19日、むつ市
終戦直後の1945年8月22日、北海道留萌沖で起きた「三船殉難事件」。樺太(サハリン)からの避難者を乗せた船3隻がソ連軍潜水艦の攻撃を受け、少なくとも1700人が犠牲になった。当時3歳で、大破しながらも唯一、撃沈を免れた第二新興丸で九死に一.....
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 終戦直後の1945年8月22日、北海道留萌沖で起きた「三船殉難事件」。樺太(サハリン)からの避難者を乗せた船3隻がソ連軍潜水艦の攻撃を受け、少なくとも1700人が犠牲になった。当時3歳で、大破しながらも唯一、撃沈を免れた第二新興丸で九死に一生を得た、むつ市緑町の畑中浩美さん(78)が今月、同船に関する冊子を制作した。樺太と戦争について2009年からまとめており、現在7冊目。戦後75年がたち、語り部が減る中、「樺太の悲劇を風化させないよう、一端でも後世に伝えることができれば」と話す。[br] ソ連は45年8月8日、対日宣戦を布告。南樺太にも侵攻してきたため、子どもや女性、高齢者は緊急疎開要綱に基づき、船で北海道に避難することになった。[br] 同22日、小樽港を目指していた第二新興丸、小笠原丸、泰東丸は留萌沖に差し掛かったところで、ソ連軍潜水艦の攻撃に遭った。小笠原丸と泰東丸は沈められ、計1300人以上が死亡・行方不明になった。[br] 3600人が乗った第二新興丸は、400人の死者・行方不明者を出したものの留萌港に到着。樺太の旧大泊町生まれの畑中さんは、母ミネさんと姉栄子さん、兄一三さんの3人と一緒に乗船し、全員が助かった。樺太に残った父己代松さんは46年に帰国し、出身地のむつ市で家族と再会を果たしたという。[br] 「数え切れない人たちが流されていった」「死体の山と、足、腕がちぎれ血まみれの負傷者。まさに生き地獄の光景だった」。冊子には乗船者や留萌住民の証言や手記が収録され、戦争の凄惨(せいさん)さを伝える。[br] 畑中さんは、50年ほど前から民主主義科学者協会法律部会に所属。同学会の東北支部は年1回の合宿で研究報告を実施しており、自身の発表テーマとして樺太について勉強することにした。幼少期に終戦を迎え、当時の記憶はほとんど残っていなかったが、50代後半から文献などを収集し、60代後半からは、樺太の悲劇を冊子につづり始めた。[br] 最新号は、15年に下北地域の地域誌に寄稿した文章を改稿。惨状にまつわる証言では、取材で新たに判明した分も追加した。[br] B5判26ページで、希望者には誌代、送料無料で配布する。はがきに郵便番号、住所、氏名を記入し申し込む。宛先は郵便番号035―0053、むつ市緑町17の40。冊子「樺太緊急疎開引き揚げ船第二新興丸」を発行した畑中浩美さん=19日、むつ市