【虚しき報せ】「大本営発表」各部署への忖度が虚報に

演劇「発表せよ!大本営!」の一幕。左から2人目が「平入大佐」=2019年8月、東京都内(劇団アガリスクエンターテイメント提供、写真:石澤知絵子)
演劇「発表せよ!大本営!」の一幕。左から2人目が「平入大佐」=2019年8月、東京都内(劇団アガリスクエンターテイメント提供、写真:石澤知絵子)
大本営発表が虚報を垂れ流した背景には、陸海軍同士、さらに両軍内部における摩擦が指摘されている。 大本営発表は1937年、日中戦争の最中に大本営が設置され、戦果を発表したことに始まり、41年のアジア太平洋戦争(太平洋戦争)の勃発(ぼっぱつ)に.....
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 大本営発表が虚報を垂れ流した背景には、陸海軍同士、さらに両軍内部における摩擦が指摘されている。[br] 大本営発表は1937年、日中戦争の最中に大本営が設置され、戦果を発表したことに始まり、41年のアジア太平洋戦争(太平洋戦争)の勃発(ぼっぱつ)により定着する。特に日本軍が勝利を続けている間の発表内容は戦果・損害ともおおむね正確だった。米国側の報道の誤りを指摘し、一度発表した内容を自ら訂正する余裕さえあった。[br] 一方、当初から陸海軍は互いに戦果を争い、誇張表現が徐々に増加。42年6月のミッドウェー海戦以降は敗戦を隠蔽(いんぺい)するため、内容の虚偽性がさらに色濃くなった。陸海軍内部でも、発表を担う報道部と、現地から直接戦果報告を受ける作戦部など他部署との間で軋轢(あつれき)が生まれた。現地軍における戦況分析能力の低下に加え、敗北の事実を隠したい意図があったとされている。[br] 発表内容は、報道部が作成した文言を関係部署が承認した上で公表する仕組みだった。報道部が各部署のメンツが立つよう忖度(そんたく)するため、内容に虚偽やごまかしが含まれる素地(そじ)がもともとあった。平出英夫も一時期、こうした作業に深く関与していた。[br] この間、報道機関における環境も大きく変容した。日中戦争当時、新聞各紙は戦地に従軍記者部隊を派遣し、スクープ合戦を繰り広げていた。従軍記者はもともと軍の統制下に置かれていたが、いち早く情報を入手するため、各紙は軍部との協力をさらに深め始める。大本営発表もその一環であり、情報源を平等に一元化する名目で、結果的に情報を統制する機能を果たしていた。[br] 38年には新聞用紙供給制限令が発令され、40年には新聞雑誌用紙統制委員会が発足、情報統制を管轄する情報局の監督下に置かれた。新聞記者は軍の命令で、宣伝報道に従事する役回りと位置付けられた。[br] これに伴い、明治期以降の新聞や出版物に付き物だった検閲も徐々に強化される。国が表現内容をあらかじめ審査し、不適当と認めた場合は該当部分の削除や、発行自体を停止できる仕組みだ。昭和期は31年の満州事変勃発に合わせ、戦争報道を規制する骨格がつくられた。[br] 戦場における死体などの残酷な写真や、不利な戦況といった、戦意を低下させる記事の掲載は細かく取り締まられた。大本営発表の真偽を問う声は言うまでもない。「紙」と「人」、「目」を押さえられた状態で、政府や軍部に批判的な論調は困難になった。[br] 「ただ、報道機関が単なる被害者だったわけではない」と、近現代史研究者の辻田真佐憲さんは注意を促す。「軍部と新聞が互いに便宜を図り、長い時間を掛けて一体化したのが実情。ジャーナリズムが批判的な視点を自ら放棄してしまった結果であることを忘れるべきではない」[br] 戦前の新聞検閲を体系的にまとめた「新聞検閲制度運用論」(清文堂、2006年)の著者であり、青森県県民生活文化課文化・NPO活動支援グループで県史の普及を担当する中園裕主幹は「大本営発表の虚偽性が肥大化した背景には、新聞界が当時の国策だった戦争の完遂を『国益』と見なしていたことが根底にある」と強調。「国益伸長のために新聞界は国民の指導鞭べん撻たつを強調し、その担い手であることを強く意識していた。だからこそ新聞界には検閲制度や軍の圧力を受け入れる素地があった」と指摘する。演劇「発表せよ!大本営!」の一幕。左から2人目が「平入大佐」=2019年8月、東京都内(劇団アガリスクエンターテイメント提供、写真:石澤知絵子)