【世界のJOMONへ】第2部・縄文の価値(2)土器の発明

大平山元遺跡から出土した土器のかけら=2月、外ケ浜町の大山ふるさと資料館
大平山元遺跡から出土した土器のかけら=2月、外ケ浜町の大山ふるさと資料館
約20万年前、現代に生きる人類の祖先はアフリカ大陸で生まれた。祖先たちは長い旅を経て、約4万年前に日本列島にたどり着いたと言われる。当時は氷期で、気温は今よりもずっと低かった。人々はカミソリの刃のような小さな石器「細石刃(さいせきじん)」な.....
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 約20万年前、現代に生きる人類の祖先はアフリカ大陸で生まれた。祖先たちは長い旅を経て、約4万年前に日本列島にたどり着いたと言われる。当時は氷期で、気温は今よりもずっと低かった。人々はカミソリの刃のような小さな石器「細石刃(さいせきじん)」などの道具を使い、狩猟の対象となる動物や植物の生え替わりに合わせて移動しながら生活していたとされる。[br] 人々の生活が一変したのは約1万5千年前。食材を煮たり炊いたりする道具である「土器」を発明した。弘前大学人文学部の関根達人教授は「土器を作ったことで“煮る”ことができるようになり、食べ物の幅が広がった。車やインターネットの発明と同じくらいすごいことだった」と強調する。[br] それまで食べることができなかった植物も煮ることで食べられるようになり、移動せずに一定の場所にとどまって生活できるようになった。「遊動」から「定住」に変わる大きなきっかけが、土器の発明だった。[br] 土器を作り始めた人々の生活の一端がうかがえる遺跡が、青森県の旧蟹田町(現外ケ浜町)にある。世界文化遺産登録を目指している「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する大平山元(おおだいやまもと)遺跡だ。1971年秋に当時の男子中学生が、家の畑から出てきた大きな石斧を蟹田中の教諭に見せたことが遺跡発見のきっかけだった。[br] この教諭は、現在三内丸山応援隊の会長を務める一町田工(いっちょうだたくみ)さん(81)。もともと町内を回って土器や石器、民具を集めていたが「こんなに大きな石斧は見たことがなかった。大変な発見だと思った」。すぐに県立郷土館の開設準備に携わっていた考古学者の三宅徹也さんに鑑定を依頼し、同遺跡の本格的な調査が始まった。[br] 調査では、旧石器時代終わりごろの特徴的な石器と共に無文の土器のかけらが出土。土器に付いていた炭化物を分析した結果、約1万5千年前のものであることが分かった。日本で見つかっている土器の中でも最古級で「土器は九州から伝わってきた」とする当時の学説を覆す大発見となった。[br] 同町の学芸員、駒田透さんは、当時の人々が同遺跡の周辺に住んでいた理由について、石器づくりのための石があったことと自然環境が整っていたことの2点を挙げる。[br] 当時の人々は、切れ味が良くて長持ちする石器に適した石を見極めて使用していた。同遺跡の近くを流れる蟹田川沿いでは、石器に適した頁岩(けつがん)がよく取れていたという。[br] もう一つの条件は川の近くという立地だ。遺跡は2本の河川が合流して蟹田川となる地点の近くにある。川の合流地点にサケが産卵する習性を利用し、サケを捕っていた可能性もあるという。同遺跡ではサケ漁を裏付ける証拠は見つかっていないが、同じ時期の他の遺跡では、サケの骨が出土した例もある。[br] 不思議なことに、約2万年~1万5千年前には、同遺跡だけでなく、中国や極東ロシアなど世界各地で、同時多発的に土器が作られ始めた。「似たような場所、似たような環境の中で、同じ物が生み出されたのかもしれない」と駒田さん。[br] 謎は多いが、同遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」が土器文化の歴史をひもとく重要な遺跡群であることに変わりはない。大平山元遺跡から出土した土器のかけら=2月、外ケ浜町の大山ふるさと資料館