三浦哲郎を旅する。(3)“滅びの血”と向き合う白銀中の宿直室(八戸市)

現白鷗小の場所にあった白銀中(1964年ごろ)。校舎の一部や体育館は62年に焼失し、建て直された(白銀中提供)
現白鷗小の場所にあった白銀中(1964年ごろ)。校舎の一部や体育館は62年に焼失し、建て直された(白銀中提供)
「白銀は、私にとって確かに回り道ではあったが、決して無駄道ではなかった。なぜなら、あの宿直室で、私は本気で文学を志願したのだから」(『ふれあい散歩道』、1988年)。49年に青森県立八戸高を卒業し早稲田大政治経済学部に進学した三浦哲郎さんは.....
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 「白銀は、私にとって確かに回り道ではあったが、決して無駄道ではなかった。なぜなら、あの宿直室で、私は本気で文学を志願したのだから」(『ふれあい散歩道』、1988年)。49年に青森県立八戸高を卒業し早稲田大政治経済学部に進学した三浦哲郎さんは、翌春には八戸市に戻り、市立白銀中の助教諭として英語と体育を教えていた。[br][br] 三浦さんが、この時代を「半生で最も辛つらい時期」(同)と振り返るのは、帰郷が、学費を支えた次兄の失踪に伴うものだったからだ。『白夜を旅する人々』(84年)で描いたように、兄姉3人は、三浦さんが幼い頃に自殺や失踪で姿を消した。6人のうち残ったきょうだいは、自分と、すぐ上の、目の不自由な姉だけになった。夜を過ごすことの多かった中学校の宿直室は、いや応なく、19歳の三浦さんが“滅びの血”と向き合う場となった。[br][br] 当時の白銀中は現在地ではなく、市立白鷗小がある場所に建っていた。今でこそ周囲は住宅地だが、当時は校庭の脇にでこぼこ道が1本走っているだけで「日が落ちると人通りも絶えて狐でも出そうな寂しさ」(「私の履歴書」、2000年)だったという。[br][br] 三浦さんは宿直室で、兄姉の思い出や、自分にも向けられる「血のささやき」を毎日記録していた。こうして消えた兄姉と向き合う中で、小説家への志を固めていく。[br][br] 「生徒の前では思い悩む姿を見せることはなく、明るい兄貴のような存在だった」と振り返るのは、中学2年の時に体育を教わった同市田面木の武部克巳さん(83)。「体育はバスケットボールが多かった。先生はとても上手で、生徒にもできるまで丁寧に教えてくれた」。高校時代に国体に出場して「ハヤブサの哲」の異名を取り、背が高く顔立ちも良い詰め襟姿の「三浦先生」は目立っていたという。[br][br] 武部さんら数人の生徒はよく、夕食を食べてから学校に戻り、宿直室の三浦さんとトランプや将棋をして遊んだ。その際、三浦さんは、後に『海の道』(70年)で描く同市鮫町の捕鯨会社焼き打ち事件や、大学在学中から愛読する太宰治のこと、父の実家がある金田一村(現二戸市)の座敷わらしの伝説など、いろいろな話をしてくれたという。[br][br] 三浦さんが宿直室でよく食べたのが「イカ刺し丼」だ(『おふくろの妙薬』『笹舟日記』など)。生徒がくれたイカをさばいて丼にたっぷり入れ、ショウガと生じょうゆを掛けて、泡立つほどかき混ぜる。これをさかなに、茶わんで日本酒を飲むのを好んだという。[br][br] 2年間教員生活を送った三浦さんは、家族のいる金田一村へ帰り、早稲田大文学部を目指して受験勉強を始めた。52年4月1日付本紙の教員異動の記事中、退職者に「(白銀中助教諭)三浦哲郎」の名前がある。[br][br] 受験勉強中の同年8月25日付で、三浦さんは白銀中の同僚にこう書き送った。「もうすぐ学校ですね。ふと羨うらやましいと思うことがあります。先日ラヂオでラデスキィ行進曲(?)を聞き、運動会を思い出し、一瞬ポカンとしました」[br][br] 助教諭の経験を下地にした短篇たんぺんには、「檻おり」(72年)などがある。主人公がかつて勤務した「白崎中」の火災の真相が明かされる「浜吉のノート」(『小説現代』64年5月号)、イカ刺し丼を教えてくれた清掃作業員とその夫を巡る「踏切」(『野生時代』77年5月号)は、残念ながら単行本・文庫本未収録だ。[br][br] 三浦さんは同校創立30周年の78年に講演に訪れ、校訓を書いた額を贈った。当時PTAとして関わった武部さんによると、二つ返事で引き受けてくれたという。文学を志すことを決意する濃密な2年間を過ごした同校に、三浦さんもひとかたならぬ思いを抱いていたに違いない。現白鷗小の場所にあった白銀中(1964年ごろ)。校舎の一部や体育館は62年に焼失し、建て直された(白銀中提供)