【震災10年 復興の歩み】(1)北奥羽 「命守る」まちづくり

東日本大震災以降、北奥羽地方では新たな防災施設や拠点が整備された(写真はコラージュ。右上から時計回りに八戸港八太郎北防波堤=八戸港湾・空港整備事務所提供=、洋野町の防潮堤、おいらせ町の明神山防災タワー、八戸市の多賀多目的運動場)
東日本大震災以降、北奥羽地方では新たな防災施設や拠点が整備された(写真はコラージュ。右上から時計回りに八戸港八太郎北防波堤=八戸港湾・空港整備事務所提供=、洋野町の防潮堤、おいらせ町の明神山防災タワー、八戸市の多賀多目的運動場)
東日本大震災の発生から間もなく10年の節目を迎える。大津波などで甚大な被害が出た北奥羽地方ではこの間、防波堤などハード面の復旧がほぼ完了。津波避難タワーなど新たな防災拠点も整備され、災害に強いまちづくりが進められてきた。各地では、それらの施.....
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 東日本大震災の発生から間もなく10年の節目を迎える。大津波などで甚大な被害が出た北奥羽地方ではこの間、防波堤などハード面の復旧がほぼ完了。津波避難タワーなど新たな防災拠点も整備され、災害に強いまちづくりが進められてきた。各地では、それらの施設を生かした訓練なども行われ、命を守る取り組みは着実に次世代へと受け継がれている。[br][br] 震災は2011年3月11日午後2時46分に発生した。強い揺れの後、沿岸部に大津波が押し寄せ、青森県内では、3人が犠牲となり、1人が行方不明になった。岩手県内では関連死も含めて5143人が亡くなり、1112人が行方不明となっている。[br][br] 建物やインフラ設備などの被害も大きく、岩手では計約2万6千棟の家屋が倒壊。爪痕は、各地で今なお残っている。[br][br] あれから10年。北奥羽地方では生活の再建と共に、各自治体の復興計画などに基づく事業が展開され、着実に復旧作業が進行した。ハード面の復旧はほぼ完了し、同時に有事を見据えた新たな防災拠点の整備なども加速した。[br][br] 八戸港では、津波によって八太郎北防波堤の約4割が倒壊。しかし、国や県で迅速に修復作業を進め、13年9月に東北地方の港ではいち早く復旧した。その後は物流拠点として東北の復興をけん引。同市では、他にも同市沼館の津波防災センターや多賀地区の避難タワーなど新たな避難拠点が整備され、有事への備えが強化された。[br][br] 階上町では、大蛇地区にJR八戸線の線路をまたぐ形で「大蛇さざ波歩道橋」が15年12月に新たに建設され、海側から高台への迅速な避難が可能に。三沢市でも四川目地区に高感度の津波監視カメラが備わった。[br][br] 北奥羽で最大の被災地となった野田村では、防潮堤がかさ上げされたほか、津波防災緑地「十府ケ浦公園」の整備が17年に終了。洋野町では、八木北港周辺から海抜20メートル地点へとつながる避難路が完成した。[br][br] 各地で復旧とともに、いつ起きるか分からない災害に対する備えが拡充された一方、避難訓練などのソフト事業も展開され、市民の防災意識は確実に高まってきた。[br][br] 今月中旬には、東日本大震災の余震とされる福島県沖を震源とする大きな地震が発生し、改めて災害への備えの重要性を突きつけられた。住民たちは10年前の教訓を胸に刻み、災害への備えを新たにしている。[br][br]   ◆    ◆[br] 東日本大震災後、北奥羽では防災に関し、どのような歩みを進めてきたのか。各地のハード整備事業などを中心に振り返る。東日本大震災以降、北奥羽地方では新たな防災施設や拠点が整備された(写真はコラージュ。右上から時計回りに八戸港八太郎北防波堤=八戸港湾・空港整備事務所提供=、洋野町の防潮堤、おいらせ町の明神山防災タワー、八戸市の多賀多目的運動場)