【斗南藩ゆかりの地探訪】(9)杉原凱先生之墓(三戸町)

三戸大神宮の社殿脇に残る「杉原凱先生之墓」(右)。教え子たちの手で1886年に建てられた=三戸町同心町
三戸大神宮の社殿脇に残る「杉原凱先生之墓」(右)。教え子たちの手で1886年に建てられた=三戸町同心町
三戸町中心部にある三戸大神宮の社殿脇には、会津藩の藩校「日新館」の教授を務め、子弟の教育に尽力した杉原凱(がい)(本名・外之助)の墓が建つ。杉原は1870(明治3)年に会津から三戸へ移住し、教育振興を目指した矢先の71(明治4)年に病気で急.....
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 三戸町中心部にある三戸大神宮の社殿脇には、会津藩の藩校「日新館」の教授を務め、子弟の教育に尽力した杉原凱(がい)(本名・外之助)の墓が建つ。杉原は1870(明治3)年に会津から三戸へ移住し、教育振興を目指した矢先の71(明治4)年に病気で急逝。当初は土を盛っただけの塚だったが、86(明治19)年に教え子たちの手で墓碑が建てられた。[br][br] 上級藩士の家に生まれた杉原は若くして学業を修め、日新館で初等教育を担う「素読所」の責任者に登用された。後に日新館医学寮の本草科で医学者の後進指導に努めた。[br][br] 人材育成に力を入れた会津藩。その拠点だった日新館は戊辰戦争で焼失したが、斗南藩に移住した藩士は再起へ向けて教育の再興に取り組んだ。田名部(むつ市)に斗南日新館を、領内各地に分校を開設する計画を立て、三戸での教育で中心的な役割を期待されたのが杉原だった。[br][br] 杉原は移住して間もなく倒れたが、志は教え子に引き継がれた。田名部小初代校長と青森師範学校長を務めた沖津醇(じゅん)や、三戸小3代校長で書家としても高名な渡部乕(とら)次郎ら多くの人材が青森県教育界で活躍した。[br][br] 杉原の墓碑建立には教え子十数人が関わり、沖津が碑文、渡部が書を担当した。三戸大神宮の山﨑貴行禰宜(52)は「杉原は日新館で学んだ人々にとって教育の象徴のようなもので、墓碑は記念碑の意味合いもあったのではないか」と推測する。[br][br] 1976(昭和51)年、会津ゆかりの人々が三戸町内の碑の修繕を企画した。杉原の墓の作業に取り掛かると、周囲の土中からたくさんの人骨が見つかった。[br][br] 一帯には以前から小さな墓石があり、会津ゆかりの無縁仏が埋葬されていた。骨は関係者が手作業で洗い清め、「会津藩殉難者無縁塔」の墓碑を建てて埋葬した。[br][br] 山﨑氏は「亡くなっても墓を建てられない藩士が多く、やむなく簡素に葬ったのだろう」と説明。「無縁仏の中には、師である杉原のそばへの埋葬を希望した門下生もいたのではないか」として、死してなお藩士の尊敬を集めた杉原の遺徳に思いをはせた。[br][br]【苦境にあえいだ移住者】[br] 会津から斗南藩への移住者は、ヤマセが吹く冷涼な気候の中で困窮し、飢えや寒さに苦しんだ。当時の苦難を示す無縁仏は、三戸大神宮だけでなく三戸町内の各地で確認されており、田畑の一角に埋葬されていた例すらある。[br][br] 町内には地域住民の寄付により救貧院が設けられ、移住者を無料で受け入れていた。[br][br] 藩士は後に教育界で活躍したが、それは苦境を乗り越えるために奮闘した結果でもあった。三戸大神宮の社殿脇に残る「杉原凱先生之墓」(右)。教え子たちの手で1886年に建てられた=三戸町同心町