【斗南藩ゆかりの地探訪】(7)白虎隊供養碑(三戸町)

観福寺に残る白虎隊供養碑(中央右)。1868年の白虎隊自刃からわずか3年後に建立されており、最古の供養碑とされる=三戸町同心町
観福寺に残る白虎隊供養碑(中央右)。1868年の白虎隊自刃からわずか3年後に建立されており、最古の供養碑とされる=三戸町同心町
三戸町同心町の観福寺の境内に、歳月を重ねた1基の墓碑がたたずむ。正面に刻まれているのは、会津藩の少年兵たちの名前と、「忠烈古今罕(まれ)ナル白虎隊ノ英魂ヲ弔ワン」の文句。戊辰戦争(1868~69年)で新政府軍と戦った同藩の少年兵部隊「白虎隊.....
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 三戸町同心町の観福寺の境内に、歳月を重ねた1基の墓碑がたたずむ。正面に刻まれているのは、会津藩の少年兵たちの名前と、「忠烈古今罕(まれ)ナル白虎隊ノ英魂ヲ弔ワン」の文句。戊辰戦争(1868~69年)で新政府軍と戦った同藩の少年兵部隊「白虎隊」が、戦況の不利を悟り飯盛山(福島県会津若松市)で自刃したことを悼む内容だ。[br][br] 建立は68年の悲劇から3年後の71年で、最古の白虎隊供養碑とされる。[br][br] 墓碑を建てたのは、会津から斗南へ移住し、現三戸町に居を構えた藩士大竹秀蔵だ。大竹は70年の移住直前に亡くなった母の遺骨を持参しており、墓碑は一周忌を迎えた母のためでもあった。[br][br] 八戸市に事務局を置く斗南藩歴史研究会の大庭紀元会長(80)は、墓碑について「移住したばかりで財力に乏しい大竹が建立資金をどう確保したのか。また新政府が白虎隊自刃の情報を隠していた中、どうやって隊士の名前を知ったのか」と二つの“謎”を指摘する。[br][br] 三戸町役場に保管されている戸籍簿によると、大竹は三戸に移住した際、地元の大商人小笠原庄三郎の下に寄宿していた。[br][br] 小笠原家は会津若松出身で、当時、観福寺の檀家総代でもあった。同寺の高杉法昭住職(46)は「大竹は同郷の有力者である小笠原の助けを得て、母と一緒に隊士を弔ったのではないか」と推測する。[br][br] もう一つの謎である白虎隊士の名前に関し、大庭氏は白虎隊隊長の日向内記が託した可能性を挙げる。[br][br] 大庭氏によると、日向は生まれたばかりの主君、松平容大(かたはる)が会津藩から現五戸町まで北上する行程を護衛したという。隊長でありながら隊士が自刃する場に居合わせられなかったため、大庭氏は「日向は隊士への強い思いと情報を持っていた。新政府の監視から自分で墓碑を建てられない中、同じ藩士である大竹に依頼したのでは」と話す。[br][br] 会津に最初の白虎隊供養碑が建ったのは1881年。それより10年も前、北の異郷に建てられた墓碑には、今も会津ゆかりの人々が訪れて手を合わせる。[br][br] 【移住者を助けた「若庄」】[br] 大竹秀蔵が三戸に移住した際に身を寄せた大商人、小笠原庄三郎はコメや塩の商いを手掛け、多くの山林や土地を所有していた。屋号である「若松屋」の「若」と、名前の「庄」を取って通称「若庄」と呼ばれていた。[br] 大竹を支援したように、会津にゆかりのある大商人は、遠い地へ移住してきた斗南藩の人々にとって心強い存在だったと推測される。ただ、若庄の家系は太平洋戦争の終戦前に三戸町を離れ、今は町内に残っていないという。観福寺に残る白虎隊供養碑(中央右)。1868年の白虎隊自刃からわずか3年後に建立されており、最古の供養碑とされる=三戸町同心町